パヴェーゼ6回目の授業。
コッラード先生の勤め先の学校は、幸いにも空襲被害には遭いませんでしたが、
その翌日、学校は休校でした。
生徒の中には亡くなった子どももいるかもしれない、と先生は案じます。
教員、事務員も学校にやってきた人は多くありません。
しばらくすると、電話が鳴り始め、生徒の親、教師、事務員、と連絡がつき始めます。
もう、これ以上電話に出たくない、と町を歩いてみることにしたコッラード先生。
瓦礫の山、家々から運び出されたマットレスや家具の山、
そして壊れた壁の合間の高いところには、壁紙や洗濯物が揺れていました。
兵士たちがスコップを手に隊列をなして歩いています。
生き埋めになった人たち、亡くなってしまった人たちを防空壕から掘り起こすためです。
しかし彼らは一向に急ぐ様子も見せず、のんびりと歩き、
きれいな女性が通れば、皆で敬礼するといった有様。
こんな状況で女性の存在に気づくのは兵士たちだけだと、コッラード先生はあきれます。
先生にとって、女性に魅了されはまっていく危険はとっくの昔に終わったことなのです。
しかもこの状況下で女性に目を奪われるとは!
市民たちはとっくに、もう戦争に負けるだろうことを直感しています。
しかし新聞は相変わらず
「勝利を信じ情熱を持つこと。それが我々の財産であり、この戦争の行方は我らの掌中にある」
と書き続けています。
というのが今回読んだ部分。
最後の部分は、まったくどこかの国と同じですね。
市民の方が冷静で真実を直視しています。
この中で私が引っかかった部分。
コッラード先生が出た電話に、同僚のフェッリーニからの電話もありました。
フェッリーニはまず「Funziona?」と訊ねるのですが……。
funzionareという動詞は、辞書によれば
①機械や器官がきちんと動く、正常に作動する
②機関、組織がきちんと機能する
③役目を務める、役割を果たす
という三つの意味があります。
この場合、フェッリーニはトリノの町が爆撃にあったことは当然知っている。
そして学校は休みだろうと思っていたけれど、念のために電話をしてみた。
で、funziona? です。
「(この電話が)聞こえるかい?」と言ったのか(つまり①の意味)
それとも
「学校は開いているのかい?」と言ったのか(つまり②の意味)。
私は迷わず①だと思っていたのですが、きちんと辞書を引くと、
そうですね、どちらとも取れるのです。
こんな場合、別にどちらの日本語をとっても良いのではないでしょうか、と先生。
まあ、これが小説の核の部分ではないから、ということもありますが、
翻訳の難しさを感じさせられた部分でした。
こんなふうにあいまいな日本語って、あまりない気がします。
漢字ってすごいなぁ、って改めて実感。
ちなみにフェッリーニは casa del diavolo から電話してきました。
直訳すると「地獄の家」ですが、「辺鄙なところにある家」を意味する言い回しだそうです。
あんなに田舎を愛し、ミラノのような都会を嫌うイタリア人なのに、
なんだか矛盾していますよね。