パヴェーゼ『丘の家』7回目の授業でした。
トリノが大空襲を受けた翌日、コッラード先生は職場の学校へ行きましたが、
学校は当然のことながら休校。
電話番をすることにうんざりして、コッラード先生は町をぶらつき始めました。
町は悲惨な状況でした。
爆撃により多くの建物が壊れ、役に立たなくなった家財道具を運び出すと、家の中はほぼ、もぬけのから。
カフェに入れば、常連客たちが「この戦争はもう負けたも同然だ」と噂している。
コッラード先生は、カフェでの話にもうんざりして、再び町をぶらつきます。
そして、過去に思いを馳せ始めました。
カーテとわかれた後につきあったアンナ・マリーアは、
コッラード先生の「田舎に学校を作る」という夢を褒めそやし、
コッラード先生は他の農民とは全く違うと、自尊心をくすぐってくれる女性でした。
しかし、ひとたびベッドインした後は、コッラード先生にわがままを言い放題、
それに耐える彼をあざ笑うという、イヤな女に変身してしまいます。
そんな彼女の態度も結婚すれば変わるかと、コッラード先生はプロポーズをし続けます。
しかしアンナ・マリーアはけっして首を縦にふらない。
先生は疲れきって、結局3年後二人は別れます。
以来、先生は女性に思いを向けると、そこにアンナ・マリーアと過ごした日々に味わった脅威を感じるようになってしまうのです。
そして、彼女との関係に対する恨みの中に、閉じこもっていくようになってしまったのでした。
というのが昨日読んだ部分。
コッラード先生がどうしてこんなに卑屈なのか、少しわかってきました。
コッラード先生は歩きながら、ひたすら様々なことに思いを巡らしているのですが、
その中に、山や海の家にとっくに避難してしまった金持ちたちのことを思う場面がありました。
しかし、こう爆撃がひどくなった今となっては、
彼らも「Ci bevevano sopra. 」とあります。
直訳すれば「上で飲む」ということなので、「丘の上で飲んでいる」ということなのか、と思いきや、
これは「酒を飲んで憂さを晴らす」という表現だそうです。
そこで「bere 飲む」の熟語を調べてみると、いろいろあるんです。
bere come un tedesco ドイツ人のように飲む = 底無しに飲む(ドイツ人に失礼?)
bere con gli occhi 両目で飲む = 見とれる
o bere o affogare 飲むか溺れるか = 二者択一を迫る
bere grosso 多量に飲む = 鵜呑みにする
bere il calice 杯を飲む = 悲しみに耐える
何だか日本語と似ていておもしろいのが
bere zinzino(ベーレ チンチーノ ちょびちょび飲むこと)と
bere a gogo (ベーレ ア ゴーゴ ごくごく飲むこと)
さて、ビールがおいしい季節になりました。
私はzinzino派です。