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本日のイタリア語

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カテゴリ:映画 イタリア( 52 )

IL SORPASSO 追い越し野郎

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Dino Risi(ディーノ・リージ)監督の最高傑作と言われる作品です。

舞台はフェッラゴスト(8月15日)のローマ。
人気のない町で、ブルーノ(Vittorio Gassman ヴィットリオ・ガスマン)は電話とタバコを探しまわっています。
バールもレストランも閉まっているし、公衆電話は見つからない、で車を走らせ続けていました。

そしてふと上を見あげたとき、ベランダから外を眺めていた青年、ロベルト(ジャン=ルイ・トランティニャン)と目があいました。
ロベルトは法学部の学生。試験勉強のためにローマに残っていたのです。
ロベルトは、ブルーノに快く電話を貸してあげます。
するとブルーノは、そのお礼に昼食をご馳走しようと、ロベルトを無理やり町に連れ出しました。
ブルーノは40代の陽気なおじさん。かたや、ロベルトは生真面目で内向的な青年。
対照的な2人のドライブが始まりました。

「しかたがない、食事をしたら急いで帰ろう」と、ブルーノに付き合うことにしたロベルト。
ところが、そう簡単にはいきませんでした。
ローマ市内で開いているレストランを見つけられず、郊外へ。
そしていつの間にか、車は北上しトスカーナへ。

ここまで来たのなら、とロベルトは、グロッセート近郊に住む親戚の家にブルーノを連れて行きました。
ブルーノはあっという間に、ロベルトの親戚たちと親しくなり、気づけばとっぷり日が暮れて…。
行き当たりばったりで、どんどん車を走らせるブルーノ。
「こうなったら電車で帰るしかない」と、ブルーノに別れを告げたロベルト。
けれども、電車は既に終わり。翌朝までローマ行きの電車は来ません。

仕方なしにブルーノと別れたレストランへ、ロベルトは戻ります。
そして真夜中に、ブルーノに連れていかれたのは、ブルーノの元妻と娘の暮らす家でした。
そして翌日、やっとローマに帰れると思いきや、ブルーノは海を満喫。
ジェットスキーに、モーターボート。
はたまた娘の彼氏と卓球勝負。

ようやくローマへの帰路についたとき、ほっとしたのか、ロベルトは一気に弾けます。
もっとスピードを上げて、前の車を追い越せ、追い越せ、とブルーノをあおり、はしゃぎます。
そして、調子にのったブルーノが対向車線に出たとき、前方からやってきたトラックと正面衝突。
ブルーノはうまいこと車から放り出され軽症ですんだものの、ロベルトは車ごと崖から転がり落ちてしまいました。
助かるわけがありません。
ただ茫然と、転がっていく車を見つめるしかないブルーノ。
そのとき、ロベルトの名字さえ自分は知らないことに、思いいたるのでした。

というあまりにも衝撃的な結末でした。
それまでの陽気なブルーノが一転、表情を陰らし震える姿が目に焼き付いてしまうような終わり方です。

このガスマン演じるブルーノ。
とにかくお調子者の適当男です。
一方的にしゃべり続けるブルーノの姿こそ、日本人のもつステロタイプのイタリア男のイメージかもしれません。

一方、どこまでもおとなしいロベルト。思っていることを口にすることもままならず、ブルーノに振り回されっぱなしです。
わたしだったら、さっさと車降りて、どうにか家に帰っちゃう。
まったく、しっかりしろよ、ロベルト! ってげきを飛ばしたくなっていたら、この終わり方です。
ロベルトが救われません。

でも実は、ブルーノにどこか心を開かせてもらったようなところもあるから、ロベルトはブルーノに感謝していたのかもしれません。
ブルーノと出会えたことで、なりたかった自分に近づけたというか。
だとしたら、少しは救いがあるのかも。

でも何より、茫然自失のブルーノの姿に胸が痛みました。
自分のしでかしたことの大きさに、この先ブルーノは押しつぶされてしまうのではないか。
ちゃんと生きていけるのだろうか。
心配です。

この映画、イタリアンコメディ、と呼ばれているようですが、うーーん、コメディじゃないよな、と思う。
悲しい映画です。

撮影は1961年、発表が62年。
その翌年63年の銀のリボン賞(Nastro d'Argento)、ドナッテッロ賞(David di Donatello)共に、ガスマンが最優秀男優賞を受賞しています。
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by arinko-s | 2012-09-11 21:32 | 映画 イタリア

NUOVO CINEMA PARADISO ニュー・シネマ・パラダイス

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どれだけイタリア映画を観ても、やっぱりこの映画が一番好きなのですが、今日『Corriere della sera ネット版』に懐かしのトトの写真を見つけました。
イタリア映画のメモリアルDVDボックスに仲間入り、という宣伝記事。

「世界中を熱狂させた映画も、いまやクラッシックになった」と書かれていました。

ひゃ〜〜〜、です。
ついこの間、映画館で観たような感覚。
でも1988年の映画なんですね。
ほんと、もう少しで四半世紀ではありませんか。

当時はまったくわかっていなかったイタリア映画の歴史。
Totò(トト)やAmedeo Nazzari(アメデオ・ナッツァーリ)やMike Buongiorno(マイク・ブオンジョルノ)が、出てきたりして。
観るたびに、あっ! っていう発見があります。
初めて観たときよりも、今は数倍楽しめるようになりました。

青年時代のトトを演じているMarco Leonardi(マルコ・レオナルディ)は、今も役者として活躍していると、恩師のダニエレが教えてくれたので、
子ども時代のトトを演じた子は、シチリアで食料品店をやってるらしい、と教えたら、「なんで日本人がそんなことを知ってるの??」と驚かれました。
何の週刊誌で読んだのかなぁ? 忘れちゃいましたが。

実はイタリア版のDVDも持っています。
久しぶりに観てみようっと。

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       なんど観てもとびきりのかわいさです。
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by arinko-s | 2012-09-05 21:45 | 映画 イタリア

Pranzo di Ferragosto  フェッラゴストの昼食

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日本の終戦記念日8月15日は、イタリアのフェッラゴスト(聖母被昇天の祝日)です。
そのフェッラゴストの祝日を題材にした映画があったことを思い出しました。

舞台は人気のなくなった8月のローマ。みんなヴァカンス中です。
主人公の中年男性ジャンニは、ローマの中心部で年老いた母親と、2人きりの生活を送っています。
母をひとりおいて出かけることもままならず、閑散とした町に残り、母の世話をしています。

そこへアパートの管理人が訪ねてきました。
フェッラゴストの前日から旅行に行きたいので、母親を預かって欲しいというのです。
その代わり、未払いの管理費を帳消しにしてあげると。

それならば、とジャンニは彼の母親を預かる約束をしました。
ところがやってきたのは、管理人の母親とおばさんの2人。
さらに、ホームドクターに往診してもらった際、ヘルパーさんが休暇中で夜勤の間母親を見ていてくれる人がいない、と泣きつかれ、彼の母親まで預かることになってしまいます。

こうして4人の老人の世話をするはめになったジャンニ。
彼女たちそれぞれの望みをきいてあげ、意見が別れた時にはそれぞれのプライドを傷つけないように折り合いをつけ、どうにか場を丸く収めながら、必死でもてなします。
もちろんジャンニは、もううんざり、という状態でしたが、翌日のフェッラゴストの昼食は思いもよらず楽しいものに。
家族の元に彼女たちを引き渡したら、ホッとするどころか、実は自分が楽しんでいたことに気づく……

というお話です。
年をとるとみんな頑固になるというけれど、元々自己主張の強い人たちだろうから、その頑固さは立派! みんな自分を曲げません。
でも強がっている中にも、家族に置いていかれた淋しさが見え隠れして。

一番印象に残ったのは、お客様が揃った食卓に、ジャンニのお母さんが赤い口紅を引いて、靴を履き替えおしゃれをして現れるシーン。
どんな相手だろうと客は客、主人は私、という主張が見えて、さすがイタリアのご婦人! という気がしました。

息子ジャンニはというと、これが優しいんです。
当然ながら、お客様を立て、そして母も立て、あっちとこっちの間に入ってはおろおろし、時に厳しい言葉をかけながらも、彼女たちの心の奥にある淋しさを癒してあげるという優れ技。
互いに頑だった彼女たちも、次第に心を開いていきます。
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ジャンニ役を演じたジャンニ・ディ・グレゴリオは、この映画の監督でもあります。
これといった大きなできごとがあるでもなく、奇抜なところもひとつもなく、ただ淡々とローマの夏の2日間を描いただけの作品ですが、
実はイタリアの少子高齢化や、結婚しない男性という社会問題が根底にある深い作品なのでは、と思います。
イタリア人が観たらなんてことない日常かもしれませんが、日本人の私からすればなんだかイタリアの社会をぎゅっと凝縮して見せられたような一本でした。
観終えたあとの、ほのぼの感も◎。
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きっと彼女たちは、ジャンニの家に戻って来るに違いありません。
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by arinko-s | 2012-08-15 20:51 | 映画 イタリア

DIVORZIO ALL'ITALIANA          イタリア式離婚狂想曲

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1961年、ピエトロ・ジェルミ監督の作品です。

シチリアの没落貴族フェルディナンド、通称フェフェ(マルチェッロ・マストロヤンニ)と、妻のロザリアは、結婚して12年になる夫婦。
フェフェは、「ねえ、どのくらいわたしのこと愛してる?」と毎晩のようにしつこく迫ってくるロザリアにうんざりしています。

実は、フェフェは、従姉のアンジェラに恋をしています。
フェフェは37歳のおじさん。アンジェラはカターニャの高校に通う17歳の少女です。

当時のイタリアは離婚が認められていませんでした。
けれども、このうっとうしい妻と、どうにかして離れたいフェフェ。
しまいには、ロザリアを殺してしまう自分を妄想し始めます。
何より、夏休みで帰省しているアンジェラのことが、寝ても覚めても頭から離れなくなってしまうのです。

そんなとき、フェフェはあることを知りました。
不貞を働いた婚姻相手を殺害しても、「名誉の殺害」として、その刑罰が軽くなるというのです。
そこでフェフェは、どうにかロザリアに浮気をさせようと企みます。
そして、フェフェの思惑通り、ロザリアはかつての恋人と家を出て行き……

というお話です。
20も下の従姉にうつつを抜かすおじさんて、どうよ? って思ってしまいますが、このアンジェラを演じているステファニア・サンドレッリのかわいいこと、かわいいこと!
今やベテランの大女優で、あっちこっちで目にします。
年をとった今もかわいくて、とりわけ『La prima cosa bella』は良かったです。

そのサンドレッリのデビュー作!
奥さんのロザリアは、口ひげはやしていたりして……う〜ん、隣の家にこんなにかわいい従姉がいたら、そりゃ隣に寝ている妻と見比べて現実逃避したくなっちゃうかもね。

結局フェフェは念願かなって、愛しのアンジェラと再婚。
人生これからだ、なんてうっとりしているのですが、そのアンジェラは、早くも他の男性を誘惑しているような思わせぶりのシーンで、映画は終わります。
またもや「名誉の殺害」を、フェフェが犯さずにすむことを願います。

ちなみにこの映画は、1963年のアカデミー賞で最優秀オリジナル脚本賞、1962年のカンヌ映画祭で最優秀コメディ賞など、数多くの賞を受賞しています。
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       初々しいサンドレッリ! かわいいです。
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by arinko-s | 2012-07-24 21:03 | 映画 イタリア

Ovosodo オヴォソード

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主人公のピエロ(写真前列中央:Edardo Gabbriellini)は、リヴォルノ(イタリア・トスカーナ州の港町)のオヴォソード地区で暮らす少年。
母親を幼いころに亡くし、父はその後すぐに再婚。
その相手、マーラはすでにお腹が大きく、ピエロの家に越してきて間もなく出産します。
けれどもその直後、父親は窃盗の罪で刑務所に。
マーラと赤ちゃん、そして知的障害を持つ兄とピエロの4人の生活が始まりました。

このピエロの目を通して描かれる、イタリアの日常。
思春期の少年の成長記です。

奥手でおとなしかったピエロを変えたのは、高校で同級生になったトンマーゾ。
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(右がピエロ、左がトンマーゾ)

明るく陽気で物怖じしないトンマーゾとの出会いにより、一気にピエロの世界は広がりました。
けれども良いことばかりではありません。
ピエロを精神的に支えてくれていた中学校の先生、ジョヴァンナに、トンマーゾが手を出してしまう。
それを知ったピエロは、ローマに遊びにいっていたトンマーゾを追いかけてローマへ。
トンマーゾを一発殴ってやったこともあります。
腹を立ててはいたものの、その時出会ったトンマーゾの従兄、スージーにひと目惚するというハプニングも。
つまり、友情、友人の裏切り、初恋などなど、青春時代のエピソードがてんこ盛りの一本です。

1997年、Paolo Virzi(パオロ・ヴィルツィ)監督の作品。
同監督のCaterina va in cittàは、中学生の日常を描いたものでしたが、どちらにも共通の感想。
いやはやイタリアの中高生ってホント早熟です。
教育システムが、日本とはまったく違うからなのかなぁ。
日本の子どもよりも自由奔放、口も達者、大人と変わらない!

もしわたしがイタリアで高校生を送っていたら……。
間違いなく、自分の意見もろくに述べることができず落ちこぼれ街道まっしぐら、ってところです。
ピエロが高校卒業試験(口頭試験)を受けるシーンがありますが、まったく質問の意図することとは関係ないことをしゃべりまくります。
つまり、問題の答えがわからなくても、何かを述べる力はあるんですよね〜。
もちろんピエロは不合格になるのですが、わたしが同じ立場に立たされたら、きっとひと言も口がきけなくなるに違いありません。
試験だけではなく、友だちに対しても、中学生時代、高校生時代の自分を思い出してみたら、なにひとつろくに考えていなくて、自分の意見を伝えるなんてことできそうにないなあ、と思っちゃいます。

あるいは、もしイタリアで子どもを育てるようなことがあったら……。
自分の青春時代には考えられなかったことを次から次へと経験してしまう子どもに対して、慌てふためきオロオロしてしまうこと間違えなし、です。

どっちが良いか悪いかはわかりません。
でも自分のことに置き換えてみると、イタリアで青春時代を過ごしてみたかったような。
でもでも、子どもには、日本の方が安心、と思ったりする。
校則と受験と部活であっぷあっぷになっている日本の高校生が幸せだとも思わないけれど、まあ、親は安心する、っていう親のわがままですね。

それにしてもあんなに子どもをベタかわいがりするイタリア人の親が、高校生の子どもの夜の外出やら飲酒やら喫煙に目をつぶる、っていうところが理解できないんだよなぁ。
それもこれも、自分が通ってきた道だから、ってことなんですね、きっと。

映画の舞台のリヴォルノは、ヴィルツィ監督の故郷です。
映画のタイトルにもなっているオヴォソードという地区は、リヴォルノの中でも庶民的な地区らしいです。
アパートのベランダには濯物がはためき、中庭にはサッカーをする子どもたちがいて、アパートの住人みんなが顔見知り。
イタリアの昔ながらの日常が残っている地区なんだと思います。

リヴォルノには、まだ一度も行ったことがありません。
語学学校で一緒だった中国人の子が、滞在許可証を取るのになぜだかリヴォルノに週末ごとに通っていて、なんだか謎の町(中国マフィア??)、というイメージもあったりして。
でも、とても美しい港町だとも聞いています。
いつの日か! 足を運んでみたい町のひとつです。
その時には、オヴォソード地区にも行ってみなくちゃですね。
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by arinko-s | 2012-06-03 21:08 | 映画 イタリア

Habemus Papam ローマ法王の休日

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イタリア映画祭初日、特別上映作品の『Habemus Papam』を観てきました。
Habemus Papamというのは、新ローマ法王が決まった時に発せられるラテン語で「新法王が決まりました」という意味だそうです。

物語は、法王のお葬式から始まります。
そして、各国の枢機卿がヴァチカンに集まり、新法王を決めるコンクラーヴェが行われます。
選挙の開票が始まると、枢機卿たちは皆必死でお祈りを捧げ始めます。「どうか、選ばれませんように」と。

その祈りが神に届かず、新法王に選ばれたのは、ダークホースのメルヴィル(Michel Piccoli ミケル・ピコリ)。
ヴァチカン広場には世界中から信者が集まり、新法王の演説を今か今かと待ちつづけていました。
そしていよいよその時が来ると、メルヴィルは重圧に耐えきれず叫び声をあげて、自室へ逃げ込んでしまいます。
結局その日の演説はおあずけ。
ヴァチカン広報官は、メルヴィルの不安を取りのぞこうと、心理療法士ブレッツィを招くのですが、メルヴィルは気をとり直すどころか、ひとりローマの街に逃げてしまい……

心理療法士のブレッツィ役を自ら演じているNanni Moretti (ナンニ・モレッティ)の監督作品です。
公開前から長いこと宣伝を見ていて、見たい、見たいと思っていましたが……
イマイチ期待はずれでした。

もちろんモレッティの作品らしく、笑える場面もたくさんあって、そこそこ楽しめるのですが、
終わり方が「へっ??」って感じでした。
神に生涯を捧げてきた老齢の枢機卿が、そこまで自分に課された立場におののく?
もちろん、ローマ法王というのは、それほど重責なのだということは理解できるのですが。
あんなおじいちゃんが、今さら宗教の道を棄ててどこに行くの? って逆に心配になってしまいました。
どうもリアリティがなさ過ぎます。

ローマの街で一般市民の生活に触れたメルヴィルが「忘れてしまったたくさんのことを思い出さなくては」というようなことを言うのですが、
枢機卿にまで上りつめるような宗教者は、自分の過去を封印して宗教の道を行くのでしょうか?
だとしたら、尚さら逃げ出そうなんて考えにはいたらないように思うのだけれど。
なんだか市民の生活を見て、枢機卿の洗脳が溶けて行くかのような描き方、だと思ってしまいました。

邦題もよくありません。
『ローマの休日』のアン王女のように、法王がローマの休日を楽しんだ後、元の鞘に納まることをイメージしてしまいます。
いや、そういうエンディングだったら、共感度倍増だったんだけどな。
なんだか腑に落ちない気持ちで帰ってきました。
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by arinko-s | 2012-04-29 22:17 | 映画 イタリア

Scialla! (Stai sereno) シャッラ/いいから!

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イタリア映画祭の特別試写会に行ってきました。
ひと足お先に、見た『Scialla! (Stai sereno)』。
最高でした。こんな映画が見たかった、っていう一本。

自宅で個別指導の補習塾を開いているブルーノ。
ある日、生徒のひとり、ルカが実の息子だと知ります。
その上、仕事の事情でイタリアを半年離れることになった母親から、ルカを預かって欲しいと頼まれる。
最初はルカとの距離を保とうとするブルーノでしたが、次第に2人の距離は縮まっていき……

何といっても、ルカ役のFilippo Scicchitano(フィリッポ・シッキターノ)がかわいい!
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いやぁ、こんな息子がいたらたまらん、っていうかんじの少年です(役では15歳)。
イタリア人親子だから、「マンマ、愛してるよ」とか言っちゃって。
日本の15歳は「くそ、うるせえんだよ!」とか言ってるんだろうなあ。表面だけでも「愛してるよ」なんて言ったりしないはず。
日本人の男性からしたら、気持ち悪っ、ってことでしょうが…。
この家族愛の形は、日本の家族の形にはないものですよねぇ。

監督さんのお話では、彼はまったく俳優業に興味がなかったそうですが、この映画がヒットしたこともあって、もう次の作品を撮影中だそうです。
楽しみ!

監督は、Francesco Bruni(フランチェスコ・ブルーニ)。
Paolo Virzi監督作品(とかとかとか)やモンタルバーノ警部シリーズの脚本を手がけてきた人だそうです。
初監督のこの作品はやはり、Virzi 作品のユーモアや温かさを踏襲しているなあ、と感じさせました。
次はどんな作品を撮るのか、これまた楽しみです。

今からイタリア映画祭のチケットを買う方、絶対、絶対お勧めです!

ちなみに原題のScialla! は、ローマっ子たちが使う「ま、落ちついて」とか「やらせてくれよ」という意味の若者言葉だそうです。
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by arinko-s | 2012-04-28 11:20 | 映画 イタリア

VINCEREの続き

先日観た『VINCERE』について、ひとつ書き忘れました。

VINCEREという単語は、日伊辞典を引くと「勝利する、優れている、(賞金などを)もらう、克服する」となっています。
なぜ、この映画のタイトルが『VINCERE』なのか、ずっと引っかかっていました。

イーダが勝利したかというと、まったくそうではありません。
精神病院に閉じこめられて、ムッソリーニの妻は自分だという主張は認められなかったのですから。

もちろんムッソリーニも、勝利していません。
戦争に負けた上に、自国民に吊るし上げられるという敗北。

邦題は『愛に勝利を』として「ムッソリーニを愛した女」という副題をつけています。
でも、このタイトルも考えれば考えるほど、良くわからなくなってきます。
これだと勝利を求めたのは、イーダだけのように思えます。
そもそも愛に勝利があるのか、って気もするし……。

それに勝利したくて、突き進んだのはムッソリーニのほうじゃないかなあ、と思うのです。
どうしても VINCERE という単語はムッソリーニへの言葉のような気がしてしまう。
「勝つために」は、人を傷つけることも厭わなかった、という意味なのかな、と思ったりしました。

そこで、伊伊事典。
すると、vincereには、ものすごくたくさんの同意語があることがわかりました。
ほれさせる、追い払う、孤立させる、引き離す、踏みにじる、監視する、侮辱する、殺す……と。

これってつまり、ムッソリーニがイーダにしたことすべてです。
やっぱりこのタイトルは、ムッソリーニに向けたもの、だと確信。
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by arinko-s | 2012-04-26 17:26 | 映画 イタリア

VINCERE 愛の勝利を ムッソリーニを愛した女

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夜よ、こんにちは』のマルコ・ヴェロッキオ監督の、2009年の作品です。

ムッソリーニ(Filippo Timi フィリッポ・ティーミ)が、まだ社会主義の活動家だったころ、警察に追われる彼を救ったイーダ(Giovanna Mezzogiorno ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)。
2人は恋に落ち、イーダはムッソリーニを支援するために私財をなげうちます。
そして2人の間には、息子ベニート・アルビーノが生まれました。

しかし、次第に政治の中心的存在となり、権力を手にしていったムッソリーニは、イーダを遠ざけるようになります。
別の女性ラケーレ・グイディと正式に結婚し、イーダの存在を否定するようになるのです。
それでもイーダは執拗に、ムッソリーニに近づこうと様々な場所に追いかけていきます。
そんなイーダをムッソリーニは、イーダの故郷に軟禁しました。
けれども、それだけでは自分の思惑通りにはいかないとわかり、今度は彼女を精神病院に幽閉してしまいます。
そして、母親と引き離された息子の方は、ファシスト党員の養子にされ、寄宿学校へと入れられてしまいました……。

という、イーダという女性を軸に、実話を元に描いた映画です。
このイーダという女性の存在については、2005年、イタリア人とアメリカ人ハーフの2人のジャーナリストが取材・作成した『ムッソリーニの秘密』というドキュメンタリーで、明らかになったそうです。

結局、イーダは精神病院から出してもらえることはなく、1937年に亡くなってしまったそうですが、第二次世界大戦が始まる前に亡くなったことがせめてもの救いかもしれません。
わたしには、どうしてそこまで彼女がムッソリーニに執着したのか理解できませんが、それほど愛していたのであれば、ムッソリーニが処刑されたことを知ったら本当に気が狂ってしまっていたかもしれません。
しかもその時、あれほど嫉妬を覚えた妻ではなく、また別の愛人が一緒だったと知ったら!

何より気の毒なのは、息子のベニート・アルビーノです。
常にファシスト政府の監視下に置かれ、友人たちからは「ムッソリーニの真似をしてみろ」とからかわれ、最期は彼も精神病院に入れられて27歳の若さで亡くなってしまうのです。

イーダの父親は村長をしていた、土地の名士だそうです。
イーダ自身はパリの学校で美容医学を学び、ミラノでエステサロンまで開いた女性。
それほどインテリで、商才にも長けていた女性が、なぜムッソリーニの狂気を見抜けなかったのか。
追えば追うほど逃げいてくムッソリーニ。華やかな舞台を歩き始めたムッソリーニが、イーダにはより輝かしく見えたのかもしれませんね。
さっさと過去の男には見切りを付けて、新しい道を歩んでいけば良かったのに〜〜、と思わずにはいられませんでした。
いや、でもひょっとしたらムッソリーニに未練があったのではなく、ひとこと自分の存在を認めさせたいだけの意地だったのかもしれません。

何より印象的だったのは、イーダ役のジョヴァンナ・メッツォジョルノ。
L'ultimo bacio』や『LEZIONE DI VOLO』でお馴染みの女優さんですが、今までのかわいらしいイメージを脱ぎ捨て、この役に体当たりしている感じです。
彼女のヒステリックに怒る演技はもう何度も目にしているけれど、その上を行く迫力。
執念が、全身からめらめら湧き出ていました。
こんなにかわいい女優さんなのに、ヌード姿も老け顔も惜しみなく披露。ますますファンになってしまいました。

もうひとりの主役、ムッソリーニ役のフィリッポ・ティーミは、今乗りに乗っている役者さん。
俳優だけでなく、監督もするし、作家としても活躍しているそうです。
この役の評価もとても高かったようですが、ただひとつ、わたしの知っているムッソリーニよりも数倍男前で、ムッソリーニと結びつけるのが難しかったです。
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by arinko-s | 2012-04-23 18:17 | 映画 イタリア

SATYRICON サテリコン

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わたしも『テルマエ・ロマエ』の映画封切りを楽しみにしているひとりですが、
その『テルマエ・ロマエ』のコミックの中で、ヤマザキマリさんが紹介していた『サテリコン』を観てみました。
いわずと知れたフェリーニの、1969年の映画です。

主人公はエンコルピオという青年。
恋人の少年奴隷ジトーネを、一緒に暮らしていたアシルトに奪われてしまいます。
しかもアシルトは、そのジトーネと一晩過ごした後、芝居小屋に彼を売り飛ばしていたのです。
エンコルピオはその芝居小屋に行き、命がけでジトーネを奪い返しました。
けれども、ジトーネはあっけなくアシルトを選び、また2人一緒に出て行ってしまいました。

はっきり筋道を追ってあらすじを語れるのはここまで。
それから先は、次から次へと場面が変わり、どうしてそこにいるのかわからない状況もしばしば。
映画の題材になっている、皇帝ネロの側近ペトロニウスが書いた『サテュリコン』の中の「トリマルキオの響宴」は「トルマリチョーネの響宴」として描かれているのですが、
この響宴にエンコルピオも参加したり、
いつの間にか捕まって奴隷として船に乗せられたり、
船の中で将軍と結婚させられたり、
そこから逃げ出せたと思ったら、たどり着いた家の主は自殺していて驚いたにもかかわらず、その家で、隠れていた奴隷の女の子と戯れたり、
両性具有の神の子と出会って、その子をさらって逃げたり(その神の子は死んでしまう)……。

ともう、エンコルピオとアシルト(途中から2人一緒の旅になる)はどれくらいの距離を移動しているのか、どのくらいの時間が経っているのかもわかりません。

これがローマ人の快楽? 退廃? 享楽?
パゾリーニの『Salò』もそうでしたが、人間快楽を追求しすぎると、たどりつくのはグロテスクなものなんですね、きっと。
いや、追求している人たちにしてみれば、それはグロテスクでも何でもなく、それが美なのかもしれませんが。

ローマ人たちが、もし本当にこんな響宴を繰り広げていたのだとして、わたしがローマ人だったとしたら、絶対にこんな響宴には参加したくないけどなぁ。

でもパゾリーニの『Salò』と違い、とにかく風景がきれいでした。
青空、風の吹き荒れる砂地、海、岩場。
終わってみれば、グロテスクさよりも映像の美しが心に残る一本でした。
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by arinko-s | 2012-04-21 22:52 | 映画 イタリア