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本日のイタリア語

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カテゴリ:翻訳( 4 )

翻訳者のトークセッション

昨日、とある翻訳学校のトークセッションを拝聴してきました。
午前中は「実録・海外ドラマ翻訳ができるまで」。午後は「“ヤングアダルト作品の魅力”徹底解析」と2本立て。
午前中の「海外ドラマ」の方は、映像翻訳家お二方と制作会社のプロデューサーの対談で、午後は文芸翻訳家の代田亜香子さんと作家の角田光代さんとの対談でした。

いやいや、どちらもおもしろすぎて、あっという間の90分(それぞれ)でした。
以下、それぞれ興味深かった話の覚え書き。

「海外ドラマ」では、制作会社の方がざっくりとした制作過程を説明してくださいました。
字幕翻訳家のチオキ真理さんと、吹き替え翻訳家の菅佐千子さんがいらしていたのですが、お二人は、それぞれの行程の違い、そして要求されることの違いについて、とてもわかりやすくお話してくださいました。

へえーーー、って驚くこともあれば、ああさもありなん、と想像つくこもあり。
中でも印象的だったのは、「台詞にだまされてはいけない」という話。
映っているものと台詞の中身が、異なることが多々あるそうです。
それから、シリーズ物であるが故に(題材はテレビドラマ『CSI』シリーズ)、最初の方の回とつじつまが合わなくなっていることも、あったりするそうです。

そのあたり、わかる気がします。
日本のように律儀につじつま合わせて物語を作る国ってない、という気がします。
小説も同じです。ざっと読んでいる時には気づかないけれど、細かく訳すと月日がずれていたり、計算が合わなかったり、過去の経歴が変わっていたり。
イタリアの場合、ああイタリア! って思うのですが、アメリカでもあるんですね。
このドラマは、一般の方から送られてきた脚本を採用することもあるそうで(これにもびっくり)、そのためにこういったずれが時々生じるのだそうです。

それから同じ映像翻訳でも、まったく別の日本語の探し方をすることが、とても良くわかりました。
同じ台詞をお二人がどう訳されているか比べる資料もいただいたのですが、これがおもしろい!
短くまとめてつける字幕と、役者の口に合わせて作る台詞。
それぞれの難しさとおもしろさがあるんですね。

「これはやった!」と、我ながら上手くいったと思う訳は? という質問に対するチオキさんの答えも印象に残りました。

And if she is lying? She's the second best one we've had in here in the last 24 hours.
という5秒間の台詞。
「あれがウソなら デボラも彼女も大した役者だ」
という訳を当てたそうです。デボラとは登場人物の名前でsecond に対してfirstの人物。あえて名前を出すことで、彼女は2人目、つまりsecond の訳になっているということでした。
「大した役者」。これは使えそうです。メモしておかなくては、と思った次第。

プロデューサーの方が、「2秒間で、けっこうな量を話している」と言われていました。
イタリア語の映像を訳すと、だいたい2秒間でワンセンテンスです。
つまり一分間話し続けていると、30センテンスくらい言っている計算。
もちろん途中、間を空けたり、同じことを言ったりもするのですが、しゃべる人だと、ホントこのくらいたくさんのことを話します。
ちょっと一回口閉じて〜〜〜、って思うくらい、しゃべり続ける人も少なくなくて、泣きたくなることしばしば。
でもこれを字幕にすると、目が追いつかないんですよねぇ。
上のチオキさんの訳くらいに、すぱっと落とすところは落とす、と。
ふむふむ、でした。潔さが必要だ。

午後の『ヤングアダルトの魅力』も、午前中に負けず劣らず興味深かったです。
角田光代さんは、ひとときはまっていて、本当にたくさんの小説を読ませていただいているので、単純なミーハー気分もあり。
でもこの日は、やはり翻訳家、代田さんの話がおもしろかった。
中でも本を探しに行く話に共感。
20冊買っても、「これは絶対翻訳したい」と思える本は、1冊あるかないか。

わかります、わかります。
先日、またまた大量にネット書店で本を購入したのですが、読んでみてがっかり、もしくはう〜んイマイチっていうのが半分はあった。
代田さんは「必ず現地の本屋で探す」そうですが、それでもそうなんだから、ネットだともっと探し当てるのは難しいはずです。
やっぱり「訳したい」本に出会うことが一番大切なんだなあ、と改めて思いました。
それから、あぁ現地に行かねば、と欲望がむくむく湧いてきましたよ〜〜。

あとみなさんがおっしゃっていたことですが、
「トータルのバランスが大切」ということ。
一語一語をあてはめようとすると、絶対に不格好な日本語になってしまうというお話。
全体を見て、オリジナルが言わんとしようとしていることを漏らさず伝えていれば、それでOKではないか、と。
これには「やっぱりそれでいいんだ」と、ひとり内心喜んでいました。

というのも、英語と違って、翻訳学校なんてないから「こういう場合はこうするもの」って教えてもらったことがない。
これでいいのだろうか、と自信のないまま進めている部分もあったりするのです。

ともかく結論としては、翻訳って奥が深いぞ、ってことです。
それでもって、翻訳ってやっぱりおもしろい、って思えるトークセッションでした。
また機会があったら、ぜひ参加したい!
英語も勉強しよっと。

追記
代田さんが、おっしゃっていたこと。どんなに疲れていても、1日に3文は必ず訳すということでした。
わたしも、まねしようと思います。
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by arinko-s | 2012-09-10 21:26 | 翻訳

翻訳勉強会

週末、翻訳勉強会というものに誘っていただき、足を運んでみました。
といっても、英語を勉強している方たちの会。
事前に課題が渡され、講師の方が講評してくれます。
もちろん、わたしは、そんな方たちに混ざって英語翻訳を発表するなんて畏れ多くてできません。
けれども、どんなことをしているのか興味津々。見学、という形で参加させてもらいました。

今回、課題として取り上げられたのは、バーバラ・カートランドの『It is Called Love』。
A4用紙3枚程度の短編です。
物語自体は、すっごくつまらないものでしたが、先生の話がとってもおもしろかった!

これは、「三人称多視点・作者の視点なし」の小説。客観小説というのだそうです。
つまり、文章によって、誰が思ったことか、見たことかが、コロコロ変わる。訳すときには、くどくならないように主語を省いたりしますが、こういった小説の場合はくどいくらいに主語を入れなくてはならないそうです。

その分、会話の訳で遊ぶ、んだそうです。
例えば、
「I have told you before」という台詞がありました。
みなさん、大多数の方が「言ったはずだぞ」とか「同じことを何度言わせるんだ」などと訳されていました。
これに対し、先生の訳は「しつこいぞ」。

なるほど、って頷いちゃいました。
ひと言で、簡潔。ちょっと感動しちゃいました。

また、この小説は、いきなり台詞から始まり、どんな場所で会話がなされているのか、いつの時代なのかという状況説明はありません。
読み進めていくと、馬車の中だったことがわかるのですが、そこの部分にたどりつくまで、それさえわかりません。

まず第一行め、「Papa」と、セリーナという女の子が継父に話しかけます。
先生の説明では、これが第一のヒント。
現代が舞台ならば「Daddy」「Dad」が使われるので、舞台は18世紀末から19世紀初頭だとわかるのだそうです。
しかも「パパ」と訳しては×。
読み進めていくうちに、それなりの身分の親子だとわかるので、「お父さま」が適語だということ。

へ〜〜〜、の連続でした。
イタリア語ではパパは「Papa'」(パパー↑と語尾が上がる)なので、何も考えずに読んでいました。確かに「Daddy」ですね、よく目にする英語は。

先生の話は、その他にもいろいろとおもしろくて、訳のことばかりでなく、小説の歴史や手法なども含め、興味深かったです。
何より、英語を勉強している人たちの熱意を感じたことが一番。
こんなふうに切磋琢磨できるなんてうらやましいな、と思ったり。
競争が激しい分、分かち合えることも多いんだな、と改めて感じました。

お〜〜〜い、イタリア語翻訳したい人たち〜〜〜〜、って呼びかけて、イタリア語の翻訳勉強会ができたらいいのになあ。
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by arinko-s | 2010-11-22 21:34 | 翻訳

警部モンタルバーノ

イタリア国営放送RAI 制作のテレフィルム、大人気の刑事物シリーズ『モンタルバーノ』に、はまっています。

シチリアのヴィガータという町(架空の町)の警察署に勤務するモンタルバーノ。
この小さな町で、次から次へと殺人事件が起こるのは、やはりマフィアのお膝元だから?
闇の組織(マフィア)の匂いも漂わせつつ、モンタルバーノがさっそうと事件を解決していく。
く〜〜、かっこいい! 
イタリア語の恩師、ロンゴ先生いわく、イタリアのフィリップ・マーロウです。
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モンタルバーノを演じるルーカ・ジンガレッティは、まさにシチリア人という風貌。
がっちり四角い体と坊主頭。仲良くしていたシチリア人のガエターノが、まさにこういう男の子だったので、そのイメージなのかな。シチリアの香りプンプンです。
このテレフィルムの魅力は、もちろん機敏なモンタルバーノその人に負うところも大きいのですが、そればかりではありません。
とにかく景色が美しい! 
とりわけ、砂浜の上に建つモンタルバーノの家には、大きなバルコニーがあって、そりゃ素敵です。
海を眺めながらの食事、海風の入る寝室。
画面から潮風の香りが漂ってきそうです。

食事シーンも、美味しそう。
モンタルバーノのお気に入りのレストランは、アグリジェント近郊に実在するレストランだとか。
これを観ると、無性にパスタが食べたくなります。
こんな殺人事件ばかり起こっている町で生活するのは気が引けますが、あ〜でもシチリアで暮らしてみたい、と思ってしまう。

先ほど見終わった『Le ali della sfinge』(『蝶の羽』)を見ていて、思ったことがひとつ。
ヴィガータ署のおっちょこちょいな職員、カタレッラが早朝、モンタルバーノを電話で起こし、事件が発生したことを報告する場面がありました。
でも被害者の名字が、出てこない。
「えーと、えーと、筆記用具のひとつで」
「Biro(ボールペン)か?」
「いいえ、インクは使わない…」
「Matita(鉛筆)か?」
「そうです、Matitaです!」

事件現場に向かったモンタルバーノが、相棒の刑事ファツィオに
「で、Matitaの当時の状況は?」と聞くと、
「だれですか? そのMatitaって?」との返事。
「だから被害者のMatitaだ」
「ああ、Lapis(鉛筆)ですよ、警部」!!

このやりとりのおかしさを再現しながら、日本語にすることって不可能?
イタリア人は、ここに出てくるように一般名刺がそのまま名字になっている人が少なくありません。
先の、シチリア人の友人、ガエターノの名字はCalvo(はげ)だったし、イタリアのマンマ、グラツィエッラの名字はPiselli(エンドウ豆)。
スパゲッティさんとかピッツァさんもいるんです。
一度、電話帳で調べたら、Giapponese(日本人)さんもいたくらい!
親しくならないと、なかなか名字まで知ることがありませんが、名字を知ると笑いそうになってしまうことが、しばしばありました。

モンタルバーノのこの場面も、
「ボールペンさんか?」
「鉛筆さんか?」
と訳したのでは、日本人には名字だと理解してもらいづらいだろうし。
かといって「ビーロさんか? マティータさんか?」としては、
マティータとラピスが同意語だから、カタレッラが間違えたのだとはわかってもらえない。
翻訳って、こういうところが難しい。

ちなみに、モンタルバーノシリーズの原作は、イタリアを代表する作家Andrea Camilleri(アンドレア・カミッレーリ)です。
本も何冊か買ったのですが、シチリア弁で書かれた小説を読むのはひと苦労で、結局ほったらかしになったまま。
このモンタルバーノシリーズに頻繁に出てくるシチリア弁の辞書(シチリア弁ーイタリア語)が、ネット上にあることを教えてもらったので、再挑戦してみようかと思案中です。
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by arinko-s | 2010-10-23 14:23 | 翻訳

ビアンカ・ピッツォルノと、イタリアの小学校の先生の話

初の翻訳童話は、イタリアを代表する現代児童文学作家のひとり、ビアンカ・ピッツォルノのお話です。
その著作数は、とても多く、イタリアでは40冊を超えているそうです。
既に日本語に翻訳されているものも、何冊かあります。

まずこの企画は、ピッツォルノの著作を、何冊も読むことから始まりました。
「こんな膨大な著書があるのだからこそ、一番ピッツォルノらしいものを」というアドバイスがあったのです。

一番の代表作を、というのならば話は早い。
でも、そうはいかないのが世の中の常。
この『赤ちゃんは魔女』は、小学校低学年から中学年向きの読み物で、原書は100ページほどでしたが、ピッツォルノの著作はどれも長い!
長いお話は、日本の出版社には敬遠されがちです。

どうも、イタリアの児童書の世界と、日本の児童書の世界を比べてみると、日本の子どもの読書力の方が、劣るような気がしてきます。
日本では、中学年で100〜150ページ、高学年で150〜250ページ、というのがだいたいの目安でしょうか?
ちなみに我が子の本棚(かなりの読書好き)を調べたところ、300ページを超す本は、全集のような、数冊の著作を一冊にまとめた本以外にはありませんでした。
ところが、イタリアでは、300ページを超す児童書はざら。
500ページ近い児童書も少なくありません。

日本でも、ハリーポッターブームから、分厚いファンタジーも次々と出されていますが、よほどのアピールポイント(映画化が決まっているとか)がない限り、ページ数の多い児童書の企画を通すのは、とても難しいことのようです。

ピッツォルノに話を戻すと、わたしのリサーチでは 
『Ascolta il mio cuore』(『この心臓のドキドキを聞いて』)が、彼女の一番の代表作だと感じています。
(もちろん『赤ちゃんは魔女』も代表作の一冊であることに、間違いありません!)
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舞台は、戦後の貧しい時代のイタリア。
主人公のプリスカとふたりの友だちを中心に、小学校生活のあれこれが描かれています。
この3人は裕福な家庭の子どもたちなのですが、まだ貧富の差が激しいこの時代。
プリスカのクラスにも、弟や妹の世話で学校に来られない子や、おふろに何日も入っていない子たちがいます。
すると、先生が堂々と、そういった家庭の子どもを差別するのです。
そんな不公平に対して、プリスカは、すぐに心臓がバクバク、ドキドキ。
先生とだって、クラスのいじめっ子とだって、堂々と、そして悪知恵を働かせて戦います。

という内容。
時代や国が違っても、学校では同じようなことが行われているし、素直でけなげな少女たちに共感できる物語です。
イタリアの子どもを巡る日常も、たっぷり描かれていて、そこも魅力です。

わたしの手持ちの版は、317ページ。それもかなり級数の小さな文字でびっしりと組んであります。
これをゆとりのある組み方に替えて、日本語に訳すと、やはり500ページ近くになりそうです。
これは、内容がどんなにおもしろくても、喜んで受け入れてくれる出版社は、少ないかも。
翻訳に結びつけるのは、かなりハードルが高そうです(もちろん、あきらめてはいません)。

ピッツォルノの書く物語には、空を飛べる人がたくさん出てきます。
ということを『赤ちゃんは魔女』のあとがきに書いたのですが、
実は、いじわるな学校の先生もたくさん出てきます。
ピッツォルノ自身、学校で先生にいじめられたのかも、なんて思うほど。

そうそう、先日感想を書いた映画『シチリア シチリア!』にも、
先生が生徒たちに父親の職業を聞き、裕福度をカテゴライズする場面がありました。
監督のトルナトーレは、「50年代のイタリアの小学校にはよくあったこと」と話しています。
ピッツォルノの描く先生たちも、この映画に出てくる先生と同じ。親の職業によってえこひいきするような先生なのです。

ちなみに、現在のイタリアの小学校には女の先生しかいません。
もちろん例外はあるでしょうが、90%以上、女性です。
理由は給与が安くて、家族を養えない、ということのようです。
この事実にも驚きますが、イタリアの小学校には、胸の谷間をぐいぐい見せつけるような先生も少なくなく、そのことにも驚いちゃいます。
日本だったら、親からの抗議殺到かも。

(追記)
よくよく考えてみたら、岩波児童文庫は、どれもページ数が多いんですね。
いま、我が子が夢中になっている『ドリトル先生』シリーズも、どれも400ページ近い厚さ。
しかも、ものすごく小さな文字でびっしり。
内容が濃ければ、厚くても子どもは喜んで読む、ということ、ですね。
逆にいえば、そのくらい内容の濃い本を探せ、ということか。
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by arinko-s | 2010-10-20 16:37 | 翻訳