ブログトップ

本日のイタリア語

cucu2.exblog.jp

<   2009年 04月 ( 15 )   > この月の画像一覧

運命に逆らったシチリアの女

イタリア映画祭2009初日です。さっそく2本立て続けに見てきました。
そのひとつが「運命に逆らったシチリアの女」。
マルコ・アメンタ監督の作品です。

シチリアの小さな町で暮らす少女リータ。
マフィアが牛耳るこの小さな町で、内部抗争により、
やはりマフィアの一員だった父と兄を次々に亡くしてしまう。
復讐を誓ったリータは、数年間に渡って彼らマフィアの活動を観察し、
検察に密告。
今度は自分の命が危険にさらされることになったリータ。
警察に保護されながら、隠れ家にこもって生活することを余儀なくされる。
そして、リータの証言の裏を取った警察は、マフィアを一掃摘発。
しかし、裁判は一筋縄では進まず、さらなる悲劇が巻き起こされた。

というのがあらすじ。
実話を元にして作られたそうです。

怖かったです。
マフィアって決して表に顔を出すことなく、家族でさえその事実に目をつぶっていると聞きますが、そのことも改めて教えられました。
17歳のリータには、マフィアに復讐するなんて、
重たすぎる荷を背負ってしまうことに他なりません。
勢い、検事の元へ走ったものの、
内心後戻りできない道へ進んでしまったことの後悔で一杯になっていたとしても
何の不思議もありません。
身内であろうと、口封じのためには消してしまう…
マフィアの恐ろしさは、やはり遠い世界のことに思えてしまいますが、
イタリア人にとってはそうでもないんでしょうね。

先日の日記に書いたオスティアの少年の話
『TI CHIAMI LUPO GENTILE』(『きみのあだなは優しいオオカミ』)も、
父親がマフィアの一員のクラウディオの物語でした。
この父親は息子に悪事を働かせ、仕事を手伝わせる。
マフィアの息子はいつの間にかマフィアの活動に足をつっこんでしまうように
できているのかもしれません。

クラウディオは、結局自分の定められた運命を壊すべく
父親に逆らいます。
そこで話は終わってしまうので、
その後のクラウディオがどうなってしまうのか気になるところですが。
どこか別の町で平穏に暮らすことはできるのでしょうか?
それとも今日の映画のリータのように、隠れて一生を終えるしかなくなってしまうのか。

自分が極道でも孫を教職の道に進ませたヤンクミのおじいさんのような、
心の広いマフィアがいればいいんだけど。
いや、もちろんマフィアがいなくなるのが理想ですけどね。
そうそう、検挙されたマフィアたちが裁判にかけられる『要塞裁判所』。
まるで動物園の檻に入れられた動物たちのようなマフィアの姿は笑えますが、
こんな裁判所があること自体、怖い話です。

もう一本の『よせよせジョニー』についてはまた後日。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-30 21:06 | 映画 イタリア

まなざしの長さをはかって

昨年のイタリア映画祭で見損なった一本。

ポー川沿いの小さな村に、代理教師としてやってきたマーラ。
美しい独身女性は、あっという間に村中の男性たちの注目の的になる。

木立の中に佇む一軒家に暮らすことになったマーラ。
そんな彼女を、夜な夜なこっそりと外から見つめる
自動車修理工のハッサン。チュニジアからの移民だ。
同じく、彼女に淡い気持ちを抱く青年、ジャーナリスト志望のジョヴァンニは、
マーラのメールアドレスとパスワードを盗み見し不正アクセス。
マーラと親友のやり取りを盗み読むようになる。

ある日、外から家の中を伺っていたハッサンに気づいたマーラ。
一度はハッサンの思いをぴしゃりと跳ね返したものの、
誠実で実直なハッサンに次第に惹かれていき、二人は結ばれる。

しかし、代理教師就任時から、次の仕事が決まっていたマーラ。
それは、村を離れることに他ならない。
結婚を申し込むハッサンにも、何も返事をすることができなかった。
そして、旅立ちの前日、悲劇が起こった。

マーラの死体が川から上がり、ハッサンが逮捕される。
一方的な裁判が進み、ハッサンは刑務所で自殺してしまう。

それまで裁判に無関心でいようとあり続けたジョヴァンニが、裁判の記録を読み直すと……。

こんなミステリー仕立ての映画とは知らなかったので、
けっこうドキドキしてしまいました。
結末は意外な展開を告げますが、
しかし本当にこんな裁判があったとしたら、イタリアの裁判て考えものです。
あまりにも捜査が杜撰すぎる。

ハッサンはとても優しく、まじめで、マーラが惹かれたのもわかります。
でも二人の立場は違いすぎる。
マーラは国際協力で世界を飛び回りたいと考えるような、活発、外交的な女性。
男性とのセックスも彼女にしたら、深い意味はなかったのかもしれません。
しかし、ハッサンにとっては、彼女と結ばれたことは、結婚に直結するような
重いできごとだったに違いありません。
ハッサンの思いが痛すぎる。

それにしてもこのタイトル、よくわかりません。
ジャーナリストを目指すジョヴァンニが新聞記者として受けたアドバイス。
それは、人との正しい距離の取り方。
遠すぎれば真実味が失せ、近くなりすぎれば客観的に書けない。
その時の言葉「La giusta distanza」正しい距離、というのが原題です。
しかし、その言葉を守らず私的感情に動かされて事件を掘り返したからこそ
ハッサンの無実が証明されたわけです。
つまり「正しい距離」というのは時と場合によるものだ、
というのが映画の言いたいところという気がします。

もちろん邦題には、原題を直訳する必要はまったくないわけですが、
このタイトルは疑問だなぁ。「まなざしの長さ」っていうのもおかしな日本語だし、
映画の主題とも離れちゃっている気がします。

見ていて楽しいのはマーラ役のヴァレンティナ・ロドヴィーニがとにかくかわいいこと。
まさにイタリア人のかわいさ!
見ていてうっとりしちゃいます。

そして、もうひとつ印象に残ったのは、最後のジョヴァンニの台詞。
ジョヴァンニは事件の真相を記事にし、ミラノの有力紙に記者として引き抜かれました。
「イタリアで最悪の町に住むことになった」
と言って終わります。
確かに多くのイタリア人(ミラノ人以外)は、そう言いますよね。
でも、ミラノだって美しいぞ!!と、私は思う。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-27 21:33 | 映画 イタリア

ne a ne ba???

ローマ近郊の町、オスティアに暮らす少年が主人公の物語を
やっとのことで読み終わりました。

b0171200_1425468.jpg


あ〜、もう苦しかったです。
内容にいまひとつ感情移入できなかったせいもありますが、
なにしろ物語の登場人物が、みなローマ弁で話すのです。
わからん。

ローマ出身のファビオに教えてもらったことを思い出しました。
ローマ弁は何でも短く省略すると。
例えば
Dove vai Fabio? (ドヴェ ヴァイ ファビオ? ファビオ、どこに行くの?)
これが、ローマでは
Do' va' Fa' (ド ヴァ ファ?)になるというのです。

まさにその調子で、登場人物たちが話してる!
ものすごい省略形。
中でもびっくりしたのが、上の ne' a ne' ba(ネ ア ネ バ)
これっていわゆる標準語のne' ai ne' bai (ネ アイ ネ バイ 黙ったまま)
を省略した形みたい。
こんなの耳で聞いても絶対わからないだろうなぁ。
ローマ人ってすごい横着なのかしらん。

南北に細長いイタリアも、日本と同じく方言がたくさんあります。
シチリア人のロンゴ先生は、ミラノの方言が一番難しい、と話していました。
フィレンツェの「カキクケコ」の発音が「ハヒフヘホ」になってしまうのにも
驚きましたが、
とりわけナポリ、シチリアと南に下ると、使われる単語もまったく違うようです。
本屋さんには「イタリア語ーナポリ語」「イタリア語ーシチリア語」辞典が売られています。

方言の話でひとつ苦い思い出。
イタリア語の映像翻訳を一度頼まれたことがあって、
意気揚々と出かけていったは良いけれど…

そこに映った男性の言葉。
最初のうちは良かったのですが、話が進むにつれ
男性も興奮気味に。
すると、もう何を言っているのか本当にさっぱりわからない。

これは困った、とイタリア語のわかる友人にSOSを出したのですが、
私と同じくミラノで暮らしていた彼女にもほとんど聞き取れない。

その男性はシチリア人で、まったく違う言葉を話していたんですね。
結局、翌日東京に住むシチリア人に助けを借り、日本語に直しました。
彼がその制作会社の方に
「イタリア語とシチリア語は別物。ミラノ人でもシチリア弁を聞き取れる人は少ないよ」
といった説明をしてくれて、どうにかその場を切り抜けることができました。
今思い出してもトホホな一日でしたね、あれは。

というわけで、シチリア弁のみならず、ローマ弁の難しさも思い知ることになった
一冊でした。
内容はまたいつか。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-26 14:48 | 本日のイタリア語

fare l'amore

パヴェーゼ四回めの授業。

コッラード教授が、夜遅くに家に帰ると、
大家の娘の方が(例の色気のない女性!)彼の帰宅を待っていました。
彼女が自分を思っていることをひしひしと感じたコッラード教授は、
ふと再会したばかりの元恋人カーテのことに思いを巡らせ始めます。

大学を卒業し、教師を始めたばかりのころ。
友人を介してカーテと知り合い、いつしか二人は付き合い始める。

そして、fare l'amore をするようになるのですが…

ずばり、セックスをすることです。
昨日この部分を訳した男性はかなり年配の方で、
「その、う〜、『愛を育んだ』」とかなりもじもじ言いづらそう。
先生がおさらいすると、さらっと
「『愛を交わした』」とまとめました。

なるほど、いろんな表現があるもんですね。
私としては、このコッラード教授の人を見下したようなところからも
ずばり「カーテとその夜セックスをした」とかがぴったり来るような気がするのですが。
やっぱり、小説としてはもっと色を付けた言葉が良いのかもしれませんね。

それにしても、コッラード教授、
家庭を持つことを「rischio」(リスク)と言ってのけます。
彼女に迫られて背負うリスク、と暗に言っている。
けっこうイヤなやつです。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-24 18:25 | 読書 イタリア語

Addio Esquire!

Esquireが休刊するそうです。
バックナンバーフェアをやっていると聞いて、
さっそく買いそびれていたものを購入。

まずは1998年10月号『作家たちの愛した北イタリア』。
まだ、イタリアに住んでいた頃に発売された号。
昨年の夏、ドロミテに旅行したのですが、これを先に読んでいれば……!
ヘミングウェイの泊まったホテルに行ってみたのに。
泊まれたかはわかりませんが、見学だけでもしたかった。
ヘミングウェイの『武器よさらば』と『河を渡って木立の中へ』、
それから澁澤龍彦の『イタリアの悪夢』
さっそく、読んでみます。

それから、2006年8月号『イタリアの絶景小島』。
これは、なんで買ってなかったのかなぁ。思い出せません。
イタリアのVacanza(ヴァカンス)の香りがムンムン漂ってくる一冊でした。
また、いつかこんなヴァカンスが過ごせるでしょうか。
あ〜、ため息です。

それにしても、骨太のEsquireがなくなってしまうなんて、ちょっと残念です。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-22 19:30 | 読書 日本語

善き人のためのソナタ

旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)職員ヴィースラー大尉は、
劇作家ドライマンを監視する任務を与えられる。
国に忠実なヴィースラーはさっそくドライマンの自宅に盗聴器をしかけ、
24時間態勢で、彼を監視し始める。

ある日、盗聴器から聞こえてきた“善き人のためのソナタ”というピアノ曲。
「この曲を本気で聴いたものは、悪人にはなれない」という
ドライマンの言葉が胸にささった。

その日を境に、ヴィースラーは嘘の報告を書き始める。
ドライマンが、東の自殺者の実態を暴く記事を西の雑誌に掲載しようと
模索していることを知っても、黙認し続けた。

そして、ドライマンの記事が匿名で西の雑誌に掲載されると、
その筆者探しが国家によって始まる。
ヴィースラーは、証拠品のタイプライターをドライマンの自宅から
持ち出し、証拠隠滅まで計るのだった。

結果、閑職に追いやられたヴィースラーだったが、数年後にベルリンの壁は崩壊。
それから数年して、ドライマンは当時自分を庇護してくれていたシュタージがいること知る。
そのシュタージへ捧げるために、一冊の本『善き人のためのソナタ』を書き上げるのだった。

心に静かな余韻を残してくれる映画でした。
ヴィースラーの気持ちの変化は、どこから来たのか?
誇りを持っていたはずの自分の職ですが、ドライマンの人間的な生活を盗聴するうちに、
バカらしくなったのかもしれません。
人間としてあたり前のことが許されない日常が、いかに心を貧しくするものかを、
芸術家であるドライマンから改めて教えられたのかもしれません。

東ドイツというと、いつも思い出すことがあります。
イタリアに渡ってまず通った語学学校からあてがわれた部屋を出る前日、
東ドイツ出身の女の子二人がやってきました。
もちろん、その時にはドイツは統一されていましたが。

まだ私のイタリア語は片言で、もちろんあちらも片言。
英語は、といえば彼女たちは英語教育を受けていない。
当時はロシア語が必修だったのですね。
私はロシア語を知りません。

もう、じれったいのだけれど、聞きたいことがたくさんあって、
片言ながら、辞書を駆使して東ドイツの話をあれこれ聞かせてもらいました。

ベルリンの壁が崩れた時、彼女たちはまだ子どもで、
「これでロシアの海がなくなる、と思った」そうです。
東ベルリンはロシアの海に囲まれた町、と呼ばれていたのだとか。
「壁の向こう側に渡って、本当にバナナを食べた?」
ニュースの映像が鮮烈に頭に残っていた私は、思わず聞いてみました。
「もちろん!」
バナナって、とても高価で手の届かない果物だったそうです。
たった一晩だけの彼女たちとの交流が、すごく懐かしく思い出されるのです。

この映画で、ドイツ政府はシュタージの記録を公開していることを知りました。
第二次世界大戦のこともそうだけれど、
ドイツ政府のこういう対応って、すごいなあと感心してしまいます。
やったことは汚点も隠さずさらけ出し、過去を反省するというか。
なかなかできることではないと、自国の政府を見て思います。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-19 16:56 | 映画 ヨーロッパ

ben fatta なんて言われてみたい。

パヴェーゼ『丘の上の家』、三回めの授業が終わりました。

コッラード教授はトリノの町から丘の上の家へ帰る途中、
谷間から上ってくる騒ぎ声を聞きます。
酔っぱらった声も聞こえれば子どもの声も聞こえる。
歌声さえ聞こえます。

興味を引かれ、声に導かれるまま谷を下りてみると、
そこにはやはりトリノから避難している人たちがたくさんいました。
暗闇の中、彼らと共に過ごしていると、
なんと近くに座った女性は、かつての恋人カーテでした。

というのが昨日読んだ部分。
昨日は私の持ち回りが回ってきたのですが、
それは、コッラード先生と元恋人との再会の場面でした。
空襲警報が鳴り響く夜のことですから、皆真っ暗闇の中で夜が明けるのを待っています。
コッラード先生にも彼女の顔は見えません。
ただ、手で抱えた膝や、肩のラインがはっきりと浮き上がって見えました。
その時の感想が「彼女はひょっとしたら ben fatta なのかもしれない」とあります。

辞書によれば「体格が良い」となっています。
私は、てっきりこの女性の体格の良さが浮き彫りになっていたのかと思ったのですが、
「きれいなラインの体」に使う表現なのだとか。
つまり、男性に対してben fatto(男性形)といえば、体格が良い、
という褒め言葉がぴったりきますが、
女性に対して使う時には「グラマラスな」という意味なんですね。
そんな褒め言葉いわれたことないから、知りませんでした〜。

それはそうと、この小説、非人称で書かれた箇所が多い!
英語でいうところのThey are~, It is~です。
人々は〜している、していた、するだろうecc.
それもこれも、コッラード教授が、自分と他人の間に境界線を
引いているからに他ならないと思うのですが、
非人称構文がこんなにややこしいものだとは、忘れていました。

si sarebbe giunti~
という文章がありました。
〜以下のことがやってくるだろう、という意味ですが、
ここで疑問。
〜以下には幾つも並列してやってくるだろうことが述べられています。
だったら、どうして動詞は三人称単数のsarebbe? 三人称複数のsarebberoじゃないの???
それとも動詞が三人称単数ならば過去分詞も単数系のgiuntoじゃないの???

まず非人称系の複合時制は、助動詞にessereしか用いない、ということ。
二つめに、普通の複合時制で助動詞にavereを用いる動詞は、過去分詞の語尾はo
しかし、(これが三つめ)普通の複合時制で助動詞にessereを用いる動詞は、
過去分詞の語尾が iになる。

帰ってきて文法書をひっくり返してみたら、きちんと書かれていました。
おまけに赤線まで引いてある!

ホント、文法の細かいこと忘れています。
もう一度文法書を読み直さなくちゃです。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-17 18:44 | 本日のイタリア語

IL PIANETA DEGLI ALBERI DI NATALE

b0171200_15394663.jpg


イタリアを代表する児童文学作家、ジャンニ・ロダーリの童話『クリスマスツリー星』です。
ロダーリの名前を知らないイタリア人はいない、と言われるほど、
イタリア人はみんなロダーリの童話を読んで大きくなるそうです。

昨年の冬にロダーリのこの本が、オリジナルの形で復刻されました。
挿絵は私の敬愛するブルーノ・ムナーリです。

あらすじはというと…

More 続きはこちら
[PR]
by arinko-s | 2009-04-15 20:39 | 読書 イタリア語

永遠に生きるために

b0171200_1540850.jpg


児童書です。著者はサリー・ニコルズ。イギリスのお話です。

主人公のサムは余命一年と宣告された11歳の白血病患者。
ある日、家庭教師の先生に「自分のことを書いてみよう」と勧められ、
家族のこと、病院で仲良くなり今も一緒に家庭教師についているフェリックスのこと、
死ぬまでにやってみたいこと、その日のできごと、などをあれこれ綴り始めます。

そう、本人も自分は近いうちに死ぬであろうことを自覚しているのです。
そして、それを受け入れ、今を精一杯生きている。
現実を受け入れられず目を背けているのは、両親でした。
病気についての話は避け、サムの身体は良くなっていると自分にも言い聞かせて暮らしている。

自分が11歳だったころ、余命を宣告されたら、サムのように前向きに生きられただろうか?
悲劇のヒロインになって、命を終えてしまうんじゃないかな、って思います。

じゃあ、自分の子どもが余命を宣告されたら。
私もサムの親と同じ。
絶対に受け入れられないだろうと思います。
そればかりか、ショックで自分の方が先に逝っちゃいそうな気がします。

これは小説だけれど、子どもの病気って耐えがたいほど悲しいものですよね。
物語とわかっていても、最後の方はボロボロ涙が止まりませんでした。
医学が発達して、寿命はどんどん延びているし、
お年寄りが本当に若々しく過ごせるようになった現代ですが、
もう寿命を延ばすことは良しとして、
どうかどなたか、年の順に逝けるよう、そういうことを研究してください! 
って願ってしまいます。

表紙の鉛筆ですが、
サムの研究によれば、
20世紀の頭に魂の重さを量ったお医者様がいたそうです。
体重測定機能のついたベッドに死を間近にした患者を寝かせて、
体重の変化を記録したところ、死の瞬間に21グラム分、メモリがガクンと落ちたのだとか。
このお医者様は、それこそ人間の魂の重さに相当すると結論づけたそうです。
それは鉛筆にすると4.5本分の重さ。
このお医者様の実験方法や結論付けに問題があることも、
サムはきちんと考察していますが、
「でも的外れじゃなかったら?」
「人には魂があるってことを、実験結果が示しているのだとしたら?」と
自分に問いかけます。

魂が鉛筆4.5本分の重さしかなかったら、ちょっと寂しい気もするけれど、
親を遺して逝くことになるサムにとっては、慰めにもなったのかもしれません。
こんなわずかなもの。そんなに悲しまないで、って。
親の気持ちを子どもが気遣うと、それまたあぁ悲しいんだけど…。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-12 19:37 | 読書 日本語

ハイネックの???

二回めの『パヴェーゼ』でした。
まだまだ序章です。

舞台は戦時下のトリノの近くの丘。
主人公のコッラード教授はトリノの混乱を避けて、近郊の丘に疎開しています。
彼は、自分と他人の間にいつも境界線を引き、どこか人を見下しているようなタイプ。
今では、心を開ける相手は愛犬ベルボだけ、というちょっと寂しい男性です。

トリノで仕事をし、夕方になると丘の家へと帰る日々を過ごすうちに、コッラード先生は幼い頃の自分を自分の中に見いだし、この少年に様々なことを話しかけ、一緒にいることを楽しむようになります。
つまり、幻影の中に生きるようになるのです。

というあたりまで、読み進めたのですが……
昨日読んだ箇所に、コッラードの大家さんがでてきました。
母と娘の親子が大家さんなのですが、
娘を修飾する言葉に、accollata とあります。
辞書によれば「ハイネックの」という意味。
ハイネックの女性とは??? 

いつも首を隠している、という意味から
「色気がない」人をこう呼ぶのだそうです。

それって、もしや、私のこと?
年をとって首周りと腰回りに寒さを感じる日々。
冬にVネックとか着られなくなりましたから。
とにかくタートルのセーター。様々な色を何枚もそろえて着回す毎日です。

自分でも、色気とはほど遠いと気づいていましたが、
その原因をズバリ指摘されたようで、ため息でした。
そうか、首を出すことで、色気ってでるんだぁ。
少なくともイタリア人にとっては、そうなんですね。
春になったから、首でも出してみますか。
[PR]
by arinko-s | 2009-04-10 19:38 | 本日のイタリア語