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本日のイタリア語

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Benvenuti al Sud  南イタリアへようこそ!

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ミラノ北部の小さな街で、郵便局長を務めるアルベルト。
奥さんの強い要望に応え、ミラノの郵便局へ転勤願いを出しています。
けれども願いは叶わず……
最後の手段と、障害者枠でポストを得ようとしますが、嘘がばれ……
その結果、カンパーニャ州、サレルノ近郊の小さな街へ左遷されてしまいました。

北の人間にとって、南で暮らすことは悪夢!
毎日暑く、道はゴミであふれ、カモッラ(ナポリマフィア)がうようよしている危険な場所です。
奥さんはもちろん、同行することを拒否。
アルベルトは単身赴任することになります。

出発の朝、アルベルトは、防弾チョッキを着て出発。
なんたってどこでカモッラと出くわし、撃たれるかしれません。
もちろん指輪や時計の貴金属類は、置いていくことにしました。

気乗りしない長旅です。高速道路をのろのろ走るアルベルト。
交通渋滞の原因を作ったとして、路肩に入るよう警察官に指示されてしまいます。
けれども「南に転勤することになって……」と聞いたその婦警さんは、「コソボ行きを命じられた、軍にいる弟を思いだす」と涙をこぼしながら、アルベルトを見逃すことにしました。

夜もとっぷり更けたころ、ようやく目的地に到着したアルベルト。
おまけにいつから降り出したのか、土砂降りの雨。
前任者の暮らしていた家には、なにひとつ家具がなく、その夜は部下となるマッティアの自宅に泊めてもらうことになりました。
けれども、まったく安心できません。
泥棒に入られるかもしれないし、襲われる可能性も捨てきれない。
不安の一夜を過ごします。

そして新しい職場での初日。
アルベルトは、南の人たちの労働ペースにイライラしっぱなし。
けれども、同僚も街の人たちも、皆とても温かく……
気づいてみれば、アルベルトはすっかりこの小さな街での暮らしが気に入っていました。

* * * * *
2010年に大ヒットした映画です。
監督はLuca Miniero(ルーカ・ミ二エーロ)。
フランス映画『Bienvenue chez les Ch'tis』のリメイク版だそうです。 
アルベルトを演じているのは、Si può fareのクラウディオ・ビーショです。

いやあ、もう最初から最後まで大爆笑でした!
そういえば、ナポリに旅行するとミラノの友人たちに伝えた時、みんな本気で心配してくれて、どれほど恐怖心を煽られたことか。
「時計なんかしていっちゃだめ」って、言われました、わたしも!
それから、「お財布を持って出歩いてはいけない」、「ホテルのセーフティボックスに貴重品を預けてはいけない」、「地下鉄にひとりで乗ってはいけない」などなど。

でも、ひとりで地下鉄にも乗っちゃいました。
昼間だというのに、切符売り場で少年(本当に小さな子)がタバコを加えたまま手を出してきて(金くれのしぐさ)、ひえ〜〜〜、って震えあがったけど。

でも、この映画を観て、やっぱり次に暮らす時は(そんなことがあればの話ですが)、やっぱり南だ! って思いました。
ナポリはさすがに勇気ないけれど、この映画の舞台になったCASTELLABATE(カステッラバーテ)のような小さな街だったら、大丈夫。
5億円当たったら、即刻南に向かうんだけどなあ〜〜〜。

今年に入り、同じくアルベルトとマッティア(Alessandro Siani アレッサンドロ・シャーニ)のコンビで『Benbenuti al Nord 北イタリアへようこそ』という逆バージョンが公開されています。
早く観たい! 
今度はどんな偏見で笑わせてくれるのかな。楽しみです。
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# by arinko-s | 2012-02-20 17:08 | 映画 イタリア

SALÒ ソドムの市 ②

パゾリーニ監督の『ソドムの市』の続きです。

タイトルには、le 120 giornate di Sodoma ソドムの120日という副題がついています。
SALÒというのは、北イタリア・ガルダ湖の近くにある町の名前です。

原作はマルキ・ド・サドの『ソドム120日あるいは淫蕩学校』。
原作が18世紀初頭のスイスを舞台にしているのに対し、映画の方は1945年のサロが舞台です。

『L'Espresso』誌に掲載されたパゾリーニのインタビューから、この映画に関して語っている部分(全部は長いので)を以下に記します。

会場にいらしているみなさん、パゾリーニ氏は今日、撮り終えたばかりの新作映画のために、ストックホルムにいらっしゃいました。ソドムを題材にした映画です……

自分のアイデアでない映画を撮ったのは、これが初めてです。今までわたしが脚本を手伝ってきた、セルジョ・チッティに最初オファーがあったのです。けれども話を進めていくうちに、チッティはこの映画への興味をどんどん失い、それとは逆に、わたしはどんどんこの映画に対する意欲が沸いてきました。とりわけ、舞台を'45年、サロ共和国の最後の数ヶ月にしたらどうだろうかというアイデアを思いついた瞬間、わたしはとてもこの映画を撮りたくなりました。それにチッティは別の題材を考えていたこともあって、この映画のプロジェクトから完全に手を引いたのです。そこで、夢中になっていたわたしが撮ることになリ、撮り終えたというわけです。

サドの小説を題材にしたこの映画は、性描写を中心としています。わたしが、人生の三部作と呼んでいるわたし自身の3本の映画、つまりボッカッチョ(編集部注:デカメロン)、カンタベリー物語、アラビアン・ナイトの3本と比べ、この映画の性描写の意味合いはまったく異なります。この映画の中では、セックスは寓意、権力の行使による買春の隠喩に他なりません。暴力的かつ誘導的な性の消費主義こそ、まさしくナチズムだと思うのです。わたしの映画は、ナチズムと消費主義の忌まわしい一致を現しているのです。そのことが観客の方々に伝わるかどうかはわかりません。暗に現しているからです。神聖(sacro)な表現といっても良いくらいです。ただし、sacroという言葉は、ラテン語では、忌まわしい(呪われた)という意味もあるのです。

なぜ1945年に舞台を移したのでしょうか?

栄華の最中ではなく、終焉の世界を描きたかったからです。詩的な理由からです。‘38年、‘39年、あるいは‘37年を舞台に撮ることもできたでしょう。けれどもそれでは、詩的な雰囲気は薄れてしまったに違いありません。

その時代、どんな詩的なことがあったのでしょう?

退廃、衰退は、それ自身が詩的です。もしナチズムの絶頂期を舞台にしたら、フィルムはがまんならないものになっていたでしょう。これはすべて最後の数日間のできごと、終わりゆくできごとだと知ることで、観客は安心を得ることができるのです。要するに、この映画は真の無秩序、つまり権力の無秩序を描いた映画なのです。

* * * * *
恐らく、このインタビューのあと、映画が上映されたのではないかと推測するのですが、その時のスウェーデンでの反応はどんなものだったのか。
気になります。
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1975年11月22日にフランスの映画祭、
1976年1月30日に西ドイツ(当時)、
1976年3月29日にスウェーデン、
1977年10月3日にアメリカで公開。
日本でも1976年に公開されているようですが、その時代にどんなふうに受け取られたのか……。

イタリアでは1975年12月23日にミラノの映画館で上映が始まったものの、3週間後にミラノ検察局に差し押さえられ、検察局はプロデューサーに対して訴訟手続きを開始。
結局、この映画が再び日の目を見たのは1991年になってからのことだそうです。
# by arinko-s | 2012-02-17 18:00 | 映画 イタリア

SALÒ ソドムの市

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ピエル・パオロ・パゾリーニの遺作です。

作家であり、詩人であり、ジャーナリストであり、映画の脚本家。
そして映画監督としても、成功したパゾリーニです。
ローマ近郊の海岸で礫死体で発見されるという、あまりにもセンセーショナルな死を遂げたこともあって、その死後36年が過ぎたというのに、彼の話題は未だに尽きることがありません。
彼の死後、部屋から消えてしまったとされる彼のノートの中身と行方も、あれこれささやかれ続けています。

これまでパゾリーニの功績は、もうあちこちから聞かされてきましたが、でも恐ろしくて手を伸ばすことができずにいました。
かじり聞きする彼のイメージは、グロテスク一色だからです。
いや確か、イタリアの語学学校で、何の映画だったか今となっては覚えていないのですが、何かを観させられ、その衝撃がすごかったのだと思います。
どんなに彼がすごい人物だと聞かされても、その後再び、この目で確かめることができずにいました。

でも実は、ローマのパゾリーニ財団にも行ったことがあります。
当時、イタリアでお世話になっていた四方田犬彦さんに連れていってもらったのです。
その時も、四方田さんにパゾリーニの素晴しさを熱く語ってもらいました。
でも印象に残っているのは、そこにいた太ったおばさまが、ラウラ・ベッティという名女優だったということと、窓からプロテスタントの教会が見えたこと。
カトリックのお膝元なのに、プロテスタントの教会があるんだぁ、なんて変なことに感心して、肝心のパゾリーニについては、何も学んでこなかったというまぬけな記憶です。

それが『L'Espresso』誌 2011年の12月21日号に掲載された、パゾリーニの未公開インタビューを読んで、一度きちんとパゾリーニを観てみようではないか、という気になったのです。
インタビューが行われたのは、1975年の10月30日、ストックホルム。
『ソドムの市』の撮影が終わった直後です。
そしてこの二日後に、パゾリーニは誰かに殺されてしまったというわけです。

このインタビューを読むと、パゾリーニがまだまだ映画を撮る気満々だったということが伝わってきます。
そして、どれほど映画に情熱を注いでいたかもわかりました。

インタビューが『ソドムの市』を撮った直後に行われていることもあって、自然『ソドムの市』を借りてきてしまったのですが……
でも、これが大失敗!
グロすぎる! 
本当に吐きそうになり、一度は最後まで観るのをあきらめかけたほど。
それでも、がんばって観続けたのですが、最後は恐ろしくて目を開けていられませんでした。

天才と奇人変人は紙一重、という時、日本ではアインシュタインが例に挙げられることが多いと思いますが、イタリア人はきっとパゾリーニを思い浮かべるに違いありません。
こんな映画を撮るなんて、変人としか思えない!

でもひとつわかったことは、パゾリーニのすごさだけは何となく伝わってきて、一度彼の映画を観た人は、怖いもの見たさというのか、「今度こそ!」みたいな気持ちで、彼の魅力を探りたくなっていくのです、きっと。
わたしも、そのドツボにはまりそうで怖いぞ。

でも次は、もう少しおとなしめのものを借りてみます。
パゾリーニの魅力を語れるようになるまでには、道のりは遠そうですが、がんばってみようかな。
# by arinko-s | 2012-02-14 22:19 | 映画 イタリア

LE QUATTRO VOLTE  四つのいのち

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カラブリア(イタリア南部)の山間部で暮らす、山羊飼いの老人。
山羊を放牧しながら、いつも咳き込んでいて、とても具合が悪そうです。
そして間もなく、おじいさんは亡くなってしまいます。

お葬式の翌日、おじいさんのヤギが子どもを産みます。
その子ヤギは、放牧に出されると、あっという間に群れからはぐれてしまいます。
子ヤギは必死で仲間を探しますが、しまいに疲れ果て、モミの木の根本で寝てしまいました。

そのモミの大木は、村の祭りのために切り倒されます(子ヤギがどうなったのかは、わかりません)。
祭りが終わると、モミの木は細かく切られ、藁を積み粘度で固めた塚で焼かれ、炭に生まれ変わります。
そして村人たちに配られます。おそらく村人たちは、この炭を使って暖をとるのでしょう。

ただそれだけの、物語です。
特別なことは、何も描かれていません。
村人たちの日常です。

イタリア映画ですが、台詞はほぼゼロ。
効果音もBGMもありません。
聞こえるのは自然の音と、人間が生活の中で立てる音だけです。

もちろん、この映画に込められているのは、命は繋がっている、というメッセージなのでしょう。
そんなに素晴しいメッセージの込められた映画なのに、わたしにはこの映画の良さがよくわかりませんでした。

印象に残ったのは、咳に苦しむおじいさんが、教会のホコリを薬にしていることとか(もちろん、げっ! って思ってしまいました)
おじいさんの家の質素な様子とか、
昔ながらの炭焼きの製法とか、
できた炭を放った時に、他の炭とぶつかる、カランという美しい音とか、
犬を追い払う子どものかしこさとか、そんなことばかり。

ああでも、そんなにたくさん印象に残った場面があるということは、それなりに良かったということかもしれません。
でもでも正直、時間が止まってしまったかのような生活の、その静けさは、退屈なほど。
途中、何度も挫折しそうになりながらも、負けてはならぬ、と我慢比べのように見終えました。

監督はMichelangelo Frammartino(ミケランジェロ・フランマルティーノ)。
2010年の映画です。
寝不足の時に観るのは、賢明ではないかも。
# by arinko-s | 2012-02-09 18:21 | 映画 イタリア

Sognando AUSTRARIA 愛しのオーストラリア

わたしの話ではありません。
イタリア人の話。

L'Espresso誌の記事によると……

イタリアの将来を憂う若者たちが、次から次へと海外へと移住してしまっている、というはたびたび耳にしてきましたが、その行き先は、今やオーストラリアがダントツなんだそうです。
2010年にも5万人以上の若者がオーストラリアへ移住し、2011年にはさらにそれを上回る数、恐らく6万人を超える若者がオーストラリアに移住したのではないか、という話。
戦後アメリカ大陸に多くのイタリア人が移民したように、今、オーストラリアを目指す若者たちが止まらない、という話なんです。

なぜオーストラリアか? 
ひとつには「ワーキングホリデー」のビザならば、一般のビザよりも容易に取得できるから、ということのようです。
次に、英語も身に付く、ということ。
そして、政治の安定、治安の良さ。
それから、仕事が簡単に見つかるという噂、などなどが挙げられていました。
今やイタリア人にとって、オーストラリアは人生を変えるための新天地、Nuova America 新アメリカなのだそうです。

もちろん、記事の中、そんなに甘いものじゃなかった、というがっかり組の談も載っています。
仕事だってそう甘くないし、ビザの延長だって簡単じゃない。
そりゃそうですよね、そんな夢みたいな国、今どきあるわけない(いや、あるのかもしれませんが)。
そして「イタリア人が多すぎて……みんな一緒に家を探して、イタリア語で生活して、イタリアの習慣をそのまま守り続けて……」という反省の弁も(これって別にイタリア人に限ったことではないと思いますが)。

新天地を求める人だけでなく、高校生の短期留学先も、新婚カップルの旅行先も、オーストラリアが人気ナンバーワン!
ああ、そういえば……
年末にさんまさんがイタリアで会ったミスイタリアの女の子も、
「オーストラリアに行ってみたい、親戚もたくさんいるし」って話していたっけ(『笑ってコラえて』)。
あれを見た時にへ〜〜、オーストラリアねぇ、なんて聞き流していましたが、こういうことだったんだ、って納得しました。

この記事を読んで、なんだか片思いしている相手に振られた気分。
ああ、そんなに好きなのね、って感じです。
なんか淋しい。
(L'Espresso 2011年12月21日号より)
# by arinko-s | 2012-01-26 20:53 | 本日のイタリア語