ブログトップ

本日のイタリア語

cucu2.exblog.jp

タグ:パオロ・ヴィルツィ ( 4 ) タグの人気記事

TUTTA LA VITA DAVANTI 見わたすかぎり人生

b0171200_13355047.jpg

ローマ大学哲学科を最優秀の成績で卒業したマルタ。
そのまま大学に残れるかと思いきや、ポストの空きはなく職探しに奔走することになります。
何社からも断られ続け、やっと雇ってくれたのは母親と二人暮らしの子どもラーラでした。
つまり、住み込みのベビーシッター。
ラーラの母親ソニアは、コールセンターのパートタイムの仕事も紹介してくれました。

さっそくベビーシッター件テレホンオペレーターとして働きはじめたマルタ。
電話して売り込むのは、本当に効果があるのかどうかわからない浄水器。これだけでも憂鬱になろうかというものなのに、朝は女性上司からの叱咤激励メールで起こされ、会社につけばついたで、全員揃って奇妙な歌をうたいながら踊らされる。休憩時間もトイレの時間も制限され、毎日仕事終わりには、その日のアポイント件数を発表されお尻を叩かれる。
会社の異様なハイテンションぶりに、マルタは今ひとつついていけずにいます。
しかし、そこは優等生のマルタ。仕事にも遺憾なく才能を発揮し、みるみるうちにトップオペレーターに上りつめます。

そんなある日、非正規雇用者の労働組合を作った組合活動員クラウディオと出会います。
営業成績の悪い社員にはくだらない罰が与えられることや、半ば脅迫めいた台詞で訪問販売のアポイントを取らせられることなど、マルタはクラウディオに告発します。
このことが引き金となり、会社は大変な事態に……。

これが大まかなあらすじ。
最初から最後まで、驚きと笑いの連続でした。
でもよくよく考えれば、とても悲しい話なんです。
たとえ大学を優秀な成績で卒業しても正社員の仕事を見つけるのは至難の業。よく聞く話ではありますが、それがイタリアの現実。今や、迷わず外国で職を探す大学卒業生も少なくないといいます。
でもこんなばかげた仕事でも無いよりはまし。
その気持ちも、わからなくはありません。

悲しいため息が出てしまうストーリーなのですが、きちんと救いが残されています。
マルタが初めて見る世界、初めて接するタイプの女の子たち。
彼女はテレフォンオペレーターの仕事と、同僚の彼女たちが夢中になっているテレビ番組をハイデッガーの哲学と結びつけて、こつこつと論文を書いていきます。
この論文がイギリスの学術誌に認められ、掲載されることに!
一歩明るい未来に近づいたことを予感させる結末です。

いやさらに、最後の最後があります。
ベビーシッターのお相手ラーラが、将来の夢を聞かれ「哲学者になるわ」と答えて映画は終わるのですが、これも嬉しいエピソードです。
マルタが子どもにもわかるように哲学者と哲学の話をくり返し聞かせていた結果、哲学の何とやらばかりか、そのおもしろさがほんの5歳くらいの女の子に伝わったということ!
マルタは嬉しくてたまらなかったに違いありません。

イタリアの映画評サイト『My movies』のなかにこう書かれていました。
「(前略)トスカーナ出身のヴィルツィ監督は、悲喜劇的かつグロテスクなブラックコメディーの側面を強調しながら、ぞっとするような、大人の生き生きとしたミュージカル仕立ての作品に仕上げている。モニチェッリのほろ苦い喜劇の素晴しき伝統を再評価した作品といえるだろう(後略)」
モニチェッリがイタリア映画に残した軌跡は、今も脈々と受け継がれているのですね。

マルタを演じているのはIsabella Ragonese(イザベッラ・ラゴネーゼ)。
b0171200_1581987.jpg

今期待の若手女優のひとりだそうです。
とってもかわいいのですが、いつも上の写真のような格好(ミニのワンピースにショートブーツ)で、思いきりがに股に歩いている!
これも生真面目な女の子という設定の、演出のひとつ?
次に出会う時には(もちろん映画の中で)、もっと美しい歩き方をしていますように。

監督はPaolo Virzi(パオロ・ヴィルツィ)。
La prima cosa bellaNCaterina va in cittàも良かったけれど、この映画も負けず劣らず気に入りました。

ただひとつ邦題の「見わたすかぎり」が、どうも気に入らない。
原題のdavantiは「前に」です。
Caterina va in cittàの中の、カテリーナの台詞にもあったように
ヴィルツィ監督のメッセージは「前を、前に」ということだと思うのです(カテリーナの台詞はavantiが使われています。これはdavantiと同様の副詞「前へ、前に」の意味)。
つまり「人生はまだまだ前に続いている」「人生これからさ」という意味だと思うのです。
「見わたす」を広辞苑で引いてみると「遠く広く望み見る」とあります。わたしのイメージでは、周囲全体という感じ。
そりゃあ、後ろにも今まで歩んできた人生はあるんだけどね。
いやいや、もっと前だけを強調してほしかったなあ。
[PR]
by arinko-s | 2011-11-24 18:19 | 映画 イタリア

前しか見えない ーCaterina va in citta'2ー

昨日ご紹介した『Caterina va in citta'』の最後に、とてもいい言葉がでてきました。

(前略)
dei pesci che coi loro occhi guardano di lato
e delle mosche che invece guardano dappertutto
noi umani possiamo solo guardare avanti

魚は脇についた目で、横を見ています
それに対し、ハエは360度、視界に入ります
わたしたち人間は、前しか目に入りません

友だちともいろいろあったし、お父さんはどこかに行ってしまったけれど、悲しんでばかり入られない。
わたしたちは前を見つめる生き物なんだから

というカテリーナの言葉。
ある意味、人間は幸せな生き物なんですね。
前を見つめて進みましょう。
b0171200_8111236.jpg

(カテリーナが友だちの本音を知って、茫然としているところ)
[PR]
by arinko-s | 2011-03-19 08:15 | 本日のイタリア語

CATERINA VA IN CITTA'

自粛ムードが漂うなか、いつも通りにブログを更新するのは不謹慎だ、という指摘も多いと聞きました。
でも、そうなのかな?
大きな被害に遭わなかったわたしたちまで、いつまでも下向いていてもしかたありません。
わたしたちが平静を保つことこそ、復興への第一歩という気がしています。

大人があまりに過敏に反応しすぎると、子どもたちにその気持ちが伝播するのは明らか。
まずはわたしたちが平静を取りもどさなくては、という思いになっています。

ということで、震災時に意味のない情報ですが、最近たくさん笑わせてもらった映画をひとつ紹介します。
b0171200_12194593.jpg

原題を直訳すると「カテリーナ、町に行く」。監督は「N IO E NAPOLEONE」や、「La prima cosa bella」と同じく、パオロ・ヴィルツィ。2003年の作品です。

ラツィオ州(ローマが州都)の海辺の小さな町で暮らす中学3年生のカテリーナ。
父方の祖父母が暮らしていたローマの家に、引っ越すことになりました。

転校した先は、父親が30年前に通っていた中学校。
新しいクラスは、右派と左派(そう、政治的思想です!)でまっぷたつ。
転校生のカテリーナは、このふたつのグループの取り合いの的になってしまいます。

まずカテリーナに手を伸ばしてきたのは、大学教授と作家の両親を持つ(つまり文化人の両親に育てられた)左側代表のマルゲリータ。
文学、音楽、詩に詳しく、冷めた視線で大人の世界を眺めるマルゲリータに、最初カテリーナはたじたじでした。
けれども自分の知らなかった世界を教えてくれるマルゲリータ。あっという間に引き寄せられていきます。
そして、アルコールを覚え、腕にタトゥーを入れてしまう。

ひとり娘を溺愛する父親のセルジョは、この事実を知り怒り心頭。
事実上、娘の交遊を制限します。

次にカテリーナに近づいてきたのは、国会議員の父親(ベルルスコーニ内閣の大臣でもあります)を持つ右側代表のダニエラ。
金持ちの特権をとことん振りかざし、派手に遊ぶダニエラは、いつも取り巻きに囲まれ、したい放題です。
底抜けに明るく、嫌みのないのはお嬢様の証し。カテリーナは、ダニエラの世界にもたじたじでした。
けれども、やっぱり未知の世界は魅力的。ダニエラに引きつれられて、おしゃれをしたりパーティに出たり。忙しい毎日でした。

しかしある日、トイレのなかでダニエラとその取り巻きたちの会話を聞いてしまったカテリーナ。
それはカテリーナを見下し、ばかにしたものでした。

クラスの派閥争いに疲れたカテリーナ。
カテリーナと同様、自分の居場所を見つけることができずに、疲れ果てていったのは、父親のジャンカルロです。
自分にはもっと才能があるに違いない、自分はこんなところにいるような人間ではない、といつも上を見あげ、下を見下していたジャンカルロ。
妻のアガタに対しても、その態度は同じ。いつも横柄な態度をとる夫に愛想が尽きたのか、アガタはジャンカルロの幼なじみ、ファビエットと親しくなってしまいます。
その事実を知ったジャンカルロは、誰にもなにも告げずに、アパートを出て行ってしまいました。

中学校卒業試験を終えたカテリーナは、見事音楽学校に入学。大好きなコーラスを本格的に学びはじめました。

というのがストーリーです。
タイトルにある、カテリーナが行った町とは、ローマのことでした。

カテリーナが大都会ローマにきてまず驚いたことは3つ。
・歩道でクロスワードパズルをする女性
・タバコを吸う修道女
・交響楽団の演奏かと思ってしまうような、クラクションの嵐

そして、アパートについてみれば、そこは外国人もたくさん住むインターナショナルな世界。
どこを歩いても、誰も自分の存在に気を留めない。まるで自分が空気になってしまったかのように感じます。

つまり、田舎から出てきたカテリーナが見た大都会の生活、カテリーナのとまどいながら成長していく姿を描いた作品です。

イタリアの中学生、すっごく興味深かったです。
日本の中学生と比べて、とにかく大人っぽい。見た目はもちろん、言うことがすごい!
何しろ、クラスが政治的思想によって分裂しているのです。
日本の中学生に、左翼、右翼、ファシスト、それぞれの見解の違いを述べられるでしょうか??
いや、大人にだって無理かも。
そもそも、日本人は自分が右か左か、自ら明かしたがらないですよね。いや、右も左も支持していないのが日本人。右も左も区別がなくなっているのが、日本の政党。
こんなに自分の意見をずばずばいうなんて、わたしもあのクラスに入ったらたじたじになっちゃいます、絶対。

それから、あの美しさ。あんなきれいな中学生って、すごい。
それもひとりや二人じゃありません。みんな自分の主張をファッションに取り入れ、おしゃれしている感じがびんびん伝わってきます。
この辺りも、右向け右で、みんなと同じ格好をしたがる日本人と正反対です。

もちろん、田舎の小さな町からやってきたカテリーナにとって、ファッションなんて今まで興味を持ったこともないもの。
いや持っていても、おしゃれとは遠い世界にあるものだったのだと思います。
結局、このファッションについて、クラスメートからばかにされていることを知ってショックを受けてしまうのですが、そりゃ都会っ子、しかもお金の自由になる子たちと、センスに差がついてもしかたのないというものです。

この映画を見ながら考えたことは、大きくふたつあります。
ひとつめは、自分の中学、高校時代を思いだして苦笑い。
埼玉という中途半端なところで育ったわたしですが、やっぱりませてくると雑誌に載っている都会にいってみたくてたまらなくなるわけです。
当時の中学・高校生の憧れの町といえば、原宿。渋谷ではありませんでした。
ファッションの教科書『OLIVE』を、端から端まで読みあさり、そこに載っているブランドものと同じ服は買えないから、似たようなデザインの服を買ってもらい、それを着て、友だちと足を運んだものです。

竹下通りを歩いてクレープを食べたり、ラフォーレを覗いてため息をついたり、う〜ん、懐かしい。
でも強烈に覚えているのは、東京の女子高生を見ては、ひるんでいたこと。
やっぱり都会の子は違うなあ、って感心していました。
なんでなんだかその理由は覚えていませんが、醸しだす雰囲気ですかね〜。
そう、やっぱり東京の女子高生はとっても大人っぽく見えました。同じ年ごろだというのにね。
カテリーナの気持ち、痛いほど身にしみます。

ふたつめは、イタリアの中学校に息子を入れたらどうなるか、ということ。
こんなふうに意見をいいあえる環境、いいなあ、って思います。
それに自由! のびのび! 

でもその反面、日本の中学生の親だったらしなくてもいいような心配も多いはず。
そもそも夜中のパーティなんて、日本の中学生は行きません。
アルコールやタバコの心配はもちろん、ドラッグ、セックス…
イタリアの思春期の子どもを持つ親の心配といったら半端じゃないと聞きます。

いやあ、そんなことを考えたら、やっぱりこっちの中学校のほうがいいかなあ、なんて思ってしまう。あんまり早く大人になられても、寂しいですからね。

イタリア語の恩師、ロンゴ先生は、今度イタリアで暮らすことがあればローマで暮らしてみたい、といいます。
この映画を見て、わたしもちょっとローマで暮らしてみたくなりました。
カテリーナのようにたじろぎうろたえながら、都会の雑踏に飲まれたい、っていう感じ。
今、原宿に行ってもひるむことがなくなっちゃったから、ローマであの頃の気持ちを思いだしたいってことかもな。
いや要するに、中学生のころのまっすぐな気持ちがぶつかりあうなかに、身を置いてみたいってだけかも。こればかりは叶わぬ願いですが。
[PR]
by arinko-s | 2011-03-18 20:40 | 映画 イタリア

N IO E NAPOLEONE

b0171200_1544828.jpg

イタリア語の授業で、Paolo Virzi(パオロ・ヴィルツィ)監督の映画を見たので(その映画については、また改めて書くつもり)、
見逃していたヴィルツィの映画を見てみました。

舞台は1814年、フランス帝国を追放されたナポレオンが、トスカーナ州のエルバ島に送られてきます。
かねがねナポレオンを忌み嫌っていた、島の文学青年、マルティーノ。
英雄到来にざわめく子どもたちに、自分の主義主張をおしつけたと、小学校教師の職を追われてしまいました。
けれどもタイミング良く、ナポレオンの司書兼記録係として、市長の推薦を受け、マルティーノが採用されます。
マルティーノは、これこそ運命と信じます。
ナポレオンを暗殺する機会を、見計らうようになるのです。

けれども、戦いに疲れ、肉体の限界や老いを自分のなかに感じ始めているナポレオンは、想像していたよりもずっと人間味にあふれた人物でした。
マルティーノは次第に、そんなナポレオンに親近感を覚えるようになります。

またマルティーノは、ナポリの老貴族の妻であるエミリアがエルバ島へやってくるたびに、情事を重ねています。
けれどもある日、エミリアはマルティーノに別れを告げます。
エルバ島の屋敷は売ることになり、二度とエルバ島へは来ないと。

ときを同じくして、マルティーノの恩師であり、反ナポレオン主義を唱えていたフォンタネッリが、ナポレオンの屋敷に武器を持って押し入ります。
あえなく逮捕されたフォンタネッリは、処刑されてしまいました。

ナポレオンはマルティーノに「もう流血はたくさんだ。彼に罰を与える気はない」と約束していました。
裏切られたと感じたマルティーノは、恩師の遺志を継ぎ自分の手でナポレオンの暗殺を実行することを決意。
寝ているナポレオンを襲います。
しかし、時既に遅し。
ナポレオンはエミリアを愛人として従え、エルバ島を脱出していたのでした。

というのが、あらすじ。
ナポレオン役のダニエル・オートゥイユ、どこかで見たことがある、と思いながら観ていましたが、
『画家と庭師とカンパーニュ』の画家役の役者さんでした!
この映画では、見事に弱々しくなったナポレオンを演じています。

確か、歴史の教科書では、「ナポレオンはエルバ島に流刑された」と書かれていたような記憶があるのですが…… 。
勝手に、ナポレオンはとても惨めな生活を送らされていたものと、思い込んでいました。
でも実際は、「年額補助200万フラン。皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」という緩やかな条件の下での島流しだったのですね。まったく知りませんでした。

トスカーナ州の観光サイトによれば、エルバ島でのナポレオンは、道路を整備し、行政を取り締まり、島民の健康や精神にまで気を配り、島を去るまでの9ヶ月間、島民との間に深い絆を築いたそうです。
今でも島のミゼルコルディア教会では、毎年5月5日(ナポレオンの命日)に、ナポレオンの島での業績を称えるミサを行うそうです。

個人的には、とても楽しめた一本でした。
ただし、最後のシーンは???
マルティーノは、マエストロの墓前に、ナポレオンを暗殺しようと持ち歩いていた懐かしのピストルを埋めます。
そして一度は帰ろうとしたものの、突然墓前に戻ってきて、土を掘り起こしピストルを手にするとほほえみます。
そして流れるテロップ。
「やはり暗殺計画を実行しようとしてセント=ヘレナ島へ向かったマルティーノ。しかし、セント=ヘレナにたどり着くのが遅すぎた。それは1821年5月6日のことだった」
つまり、ナポレオンは5月5日に亡くなっているので、間に合わなかった、ということなのですが、このシーンはいるのかなあ。

いや、それより疑問なのは、邦題!!
調べてみたら、「ナポレオンの愛人」と題され(そうそう、原題を直訳すると「N ぼくとナポレオン」です)、
b0171200_163612.jpg

こんな、カバーに変えられていました。
そりゃ、エミリア役のモニカ・ベルッチは、最後にナポレオンの愛人になって一緒にエルバ島を脱出するけれども、
映画の主題とタイトルがあまりにもかけ離れています。
日本でも名が知られているモニカ・ベルッチの名を借りて売ろうとした商売根性が見え見えで、それが逆に商業的に成功しなかった原因だとしか思えません。

このタイトルと、ジャケットにだまされず、皆さん、ぜひ見てみてください(ネタばらしちゃったけど)!
わたしは、原作の小説、エルネスト・フェッレーロの「N」を読んでみたいと思います。
そして、次回イタリア旅行は、エルバ島を目指します(いつ実現するかまったく未定ではありますが)! 
[PR]
by arinko-s | 2011-02-20 16:58 | 映画 イタリア