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本日のイタリア語

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翻訳者のトークセッション

昨日、とある翻訳学校のトークセッションを拝聴してきました。
午前中は「実録・海外ドラマ翻訳ができるまで」。午後は「“ヤングアダルト作品の魅力”徹底解析」と2本立て。
午前中の「海外ドラマ」の方は、映像翻訳家お二方と制作会社のプロデューサーの対談で、午後は文芸翻訳家の代田亜香子さんと作家の角田光代さんとの対談でした。

いやいや、どちらもおもしろすぎて、あっという間の90分(それぞれ)でした。
以下、それぞれ興味深かった話の覚え書き。

「海外ドラマ」では、制作会社の方がざっくりとした制作過程を説明してくださいました。
字幕翻訳家のチオキ真理さんと、吹き替え翻訳家の菅佐千子さんがいらしていたのですが、お二人は、それぞれの行程の違い、そして要求されることの違いについて、とてもわかりやすくお話してくださいました。

へえーーー、って驚くこともあれば、ああさもありなん、と想像つくこもあり。
中でも印象的だったのは、「台詞にだまされてはいけない」という話。
映っているものと台詞の中身が、異なることが多々あるそうです。
それから、シリーズ物であるが故に(題材はテレビドラマ『CSI』シリーズ)、最初の方の回とつじつまが合わなくなっていることも、あったりするそうです。

そのあたり、わかる気がします。
日本のように律儀につじつま合わせて物語を作る国ってない、という気がします。
小説も同じです。ざっと読んでいる時には気づかないけれど、細かく訳すと月日がずれていたり、計算が合わなかったり、過去の経歴が変わっていたり。
イタリアの場合、ああイタリア! って思うのですが、アメリカでもあるんですね。
このドラマは、一般の方から送られてきた脚本を採用することもあるそうで(これにもびっくり)、そのためにこういったずれが時々生じるのだそうです。

それから同じ映像翻訳でも、まったく別の日本語の探し方をすることが、とても良くわかりました。
同じ台詞をお二人がどう訳されているか比べる資料もいただいたのですが、これがおもしろい!
短くまとめてつける字幕と、役者の口に合わせて作る台詞。
それぞれの難しさとおもしろさがあるんですね。

「これはやった!」と、我ながら上手くいったと思う訳は? という質問に対するチオキさんの答えも印象に残りました。

And if she is lying? She's the second best one we've had in here in the last 24 hours.
という5秒間の台詞。
「あれがウソなら デボラも彼女も大した役者だ」
という訳を当てたそうです。デボラとは登場人物の名前でsecond に対してfirstの人物。あえて名前を出すことで、彼女は2人目、つまりsecond の訳になっているということでした。
「大した役者」。これは使えそうです。メモしておかなくては、と思った次第。

プロデューサーの方が、「2秒間で、けっこうな量を話している」と言われていました。
イタリア語の映像を訳すと、だいたい2秒間でワンセンテンスです。
つまり一分間話し続けていると、30センテンスくらい言っている計算。
もちろん途中、間を空けたり、同じことを言ったりもするのですが、しゃべる人だと、ホントこのくらいたくさんのことを話します。
ちょっと一回口閉じて〜〜〜、って思うくらい、しゃべり続ける人も少なくなくて、泣きたくなることしばしば。
でもこれを字幕にすると、目が追いつかないんですよねぇ。
上のチオキさんの訳くらいに、すぱっと落とすところは落とす、と。
ふむふむ、でした。潔さが必要だ。

午後の『ヤングアダルトの魅力』も、午前中に負けず劣らず興味深かったです。
角田光代さんは、ひとときはまっていて、本当にたくさんの小説を読ませていただいているので、単純なミーハー気分もあり。
でもこの日は、やはり翻訳家、代田さんの話がおもしろかった。
中でも本を探しに行く話に共感。
20冊買っても、「これは絶対翻訳したい」と思える本は、1冊あるかないか。

わかります、わかります。
先日、またまた大量にネット書店で本を購入したのですが、読んでみてがっかり、もしくはう〜んイマイチっていうのが半分はあった。
代田さんは「必ず現地の本屋で探す」そうですが、それでもそうなんだから、ネットだともっと探し当てるのは難しいはずです。
やっぱり「訳したい」本に出会うことが一番大切なんだなあ、と改めて思いました。
それから、あぁ現地に行かねば、と欲望がむくむく湧いてきましたよ〜〜。

あとみなさんがおっしゃっていたことですが、
「トータルのバランスが大切」ということ。
一語一語をあてはめようとすると、絶対に不格好な日本語になってしまうというお話。
全体を見て、オリジナルが言わんとしようとしていることを漏らさず伝えていれば、それでOKではないか、と。
これには「やっぱりそれでいいんだ」と、ひとり内心喜んでいました。

というのも、英語と違って、翻訳学校なんてないから「こういう場合はこうするもの」って教えてもらったことがない。
これでいいのだろうか、と自信のないまま進めている部分もあったりするのです。

ともかく結論としては、翻訳って奥が深いぞ、ってことです。
それでもって、翻訳ってやっぱりおもしろい、って思えるトークセッションでした。
また機会があったら、ぜひ参加したい!
英語も勉強しよっと。

追記
代田さんが、おっしゃっていたこと。どんなに疲れていても、1日に3文は必ず訳すということでした。
わたしも、まねしようと思います。
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by arinko-s | 2012-09-10 21:26 | 翻訳

『りっぱな兵士になりたかった男の話』

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ようやく形になりました!
ようやくというのも、この原書と出会って、かれこれ3年近くが経つからです。
途中、何度も笑わせられるユーモラスなストーリー展開と、ちょっと切ない読後感。
本になるまで、何度読んだかわかりませんが、最初から今までずっと変わりません。
何度読んでも、最後にはほろっとしてしまいます。

児童書ですが、大人が読んでも心に響く一冊だと思います。
ぜひぜひ、お手にとって読んでいただけますように!
戦争のない平和な世界が、いつの日かやってきますように!
そして、たくさんの子どもたちに長いこと読んでもらえる、息の長い一冊になりますように!

素敵なイラストをつけてくださった、シゲタサヤカさんにも感謝です。
もちろん素敵な一冊にしてくださった、講談社の編集者、Sさんにも感謝の気持ちで一杯です。
あらすじは、Amazonに詳しく書かれていますので、ご覧ください。
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by arinko-s | 2012-06-19 13:39 | 本日のイタリア語

Bacio a cinque

連休後半は仕事。楽しみにしていたイタリア映画祭も、あきらめることに。チケット、無駄にしてしまいましたが、仕方ありません。

ここのところ、映画の鑑賞記録が続いていましたが、読書もぼちぼち続けています。
超がつくほど忙しく、ヒーヒーしていた時に、心和ませてもらったのがこの本です。
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著者のGiulia Sagramola(ジュリア・サグラモラ)が、自分の誕生から小学校卒業までのエピソードをイラストで綴った本です。

例えば…
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ジュリアが2歳の頃。
山あいの小さな街で暮らすジュリア。近所のことに色々と関心を持ち始めます。
ある日、山に向かって、「CIAO!(チャオ!)」と声をかけると、「チャオ、アオ」
と返事が返ってきます。てっきり山に住んでいる子どもが返事をしてくれているのだと思ったジュリア。今度は
「COME TI CHIAMI? (ねえ、名前は?)」と訊ねます。
すると「CHIAMI?(きみは?)」と逆に聞かれ。「IO GIULIA (わたしはジュリア)」と答えました。
今度は相手が「GIULIA LIA」と返事するので、「ANCHE TU?(えっ、あなたもジュリアなの?」とジュリアはびっくり。
すると相手が「TU? TU?(君も? 君も?)」と返事。
「BASTA(いいかげんにして)」とジュリアが言うと、相手も「BASTA ASTA ASTA 」
まったくもう! ってジュリア、むっつり。ただのやまびこだったという話。

それから少したって、ジュリアに妹が生まれます。
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病院には両親の祖父母も集合。ジュリアもお父さんに連れられて病院にやってきました。
お母さんに、「ほら、妹のキアラよ」と紹介されます。「小さいでしょ? チャオ、キアラ、っていってごらん」と促され、一応「チャオ、キアラ」と気のりのしない様子で呼びかけてみたものの、「ねえ、ミケーレはどこ?」と不満顔。

実は、ジュリアはお母さんのお腹に赤ちゃんがいると知り、「赤ちゃんの名前は、ミケーレ! 絶対ミケーレ! ミケーレがいい!」と決めていたのです。
ミケーレは男の子の名前。ジュリアは弟が生まれると、信じていたのです。
だから、「キアラよ」なんていわれても、まったく合点がいかない。
おまけに……
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お父さんに「マンマとキアラはもう少し病院にいるけど、その後うちに帰ってくるからね。嬉しいだろ?」と言われ、
「なんで、その子がうちにくるの???」とびっくり。
おじいさん、おばあさんに笑われても、その理由がまったく分からない、というお話。

どこの国も子どもは同じですね。
ホント、楽しい。
ジュリアはどんどん大きくなってお姉さんぶりを発揮しますが、このキアラの下にもうひとり妹のアンナが生まれて、その2人も笑わせてくれます。

タイトルの『Bacio a cinque』は、『5人でチュッ』というところ。
ジュリアの家族は、いつも寝る前に家族で丸くなってキスをし合うのですが、
3人のチュが、4人になり、そして5人になった、というお話です。
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by arinko-s | 2012-05-06 22:27 | 読書 イタリア語

avere sette vite come i gatti  七転び八起き

以前、『7回生きたねこ』という本を読んだ時、
著者のDomenica Lucianiが、佐野洋子さんの『百万回生きたねこ』にインスピレーションを得たのかも、と思いました。

でも、違いました!
今日、初めて知った事実。
イタリア語では七転び八起きのことを「avere sette vite come i gatti」というのだそうです。
直訳すると「ねこのように7つ命を持つ」ということ。
どんなに高いところから落とされても見事に着地してみせるねこ(しぶとく生きるねこ)は、7回生き返ると信じられていたことから、こういう言い回しをするのだそうです。

だから、イタリア人にとってこの本のタイトル『Sette volte gatto』は、当たり前の当たり前。
ねこの人生は、今も昔も「7回」なのです。
知らなかった〜〜。 

ちなみに調べてみたところ、
同じヨーロッパでもアングロサクソン系では「ねこは9回生きる」とされていて、
アラブの国々では、イタリアと同じ「7回」なんだそうです。
もちろん、日本では「百万回」!
どこのねこよりもしぶとい、日本のねこバンザイ!
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by arinko-s | 2011-10-26 17:08 | 本日のイタリア語

CHIEDIMI CHI SONO

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久しぶりの読書記録です。
著者は、Anna Lavatelli(アンナ・ラヴァテッリ)とAnna Vivarelli(アンナ・ヴィヴァレッリ)。多くの共著を出している二人の一冊です。

物語は、山道を急ぐ若者が、何者かに襲われるところから始まります。
襲った方は、若者の身分証明書やこれから行く先で渡すことになっていただろう紹介状などを奪って、若者を崖から突き落としました。


となにやら、とってもミステリアス。おまけにこの表紙です。
これは、ミステリーに違いないと確信。わくわくしながら、先を急ぎました。

舞台は、1758年の早春、イタリア北部にある町、ヴィジェーヴァノ。
サポリーティ伯爵家は、ひとり息子フィリベルトの結婚に向け、浮き足立っていました。
フィリベルトは、これからシチリア島のパレルモに住むクトー男爵のひとり娘、エレオノーラと正式に婚約を交わすため、パレルモへと旅立つことになっていました。
しかしまだ精神的に幼いフィリベルトは、婚約者のことよりも、道中にどんな冒険が待ち受けているのか、そのことが楽しみでしかたありません。結婚に関しては、むしろ消極的でした。


そうです、そうです、まだイタリアという国ができる前の物語。
シチリアとヴィジェーヴァノなんて、文化も言葉もまったく違う外国だった時代の物語なわけです。

息子を送り出す伯爵夫妻にしても、息子フィリベルトにとっても、道中どんなことが起こるのか、まったく想像もつきません。
伯爵夫人は息子が無事にパレルモへたどり着けるよう、また様々な見聞を広げられるよう画策します。
そこで選んだ旅の同行者は、
フィリベルトの家庭教師であり高位聖職者でもあるジェンティーニ、
美術ガイド役オットニエーロ、
薬草の専門家であるトンマーゾ修道士、
剣の達人ストッパーニ、
司書のタルジーノ修道士、
フィリベルトの幼なじみであり、伯爵家の使用人でもあるディオニージ、
一行の引率者として、兵士としての経験豊かなルーチョと、そのお供数名。
と、大所帯での旅が始まります。

フィリベルトとディオニージは主従の関係を超え、固い友情で結ばれています。
ディオニージは幼い頃から、伯爵夫妻の好意により、フィリベルトと共に多くのことを学ばせてもらってきました。
勉強嫌いのフィリベルトとは対照的に、ディオニージは好奇心旺盛で知識欲の高い青年。
家庭教師のジェンティーニは、彼の利発さにいつも関心させられていました。

そのころ、パレルモの名家であるブテーラ家のグイスカルド公は、クトー家を内偵させるために手下をクトー家に送りこんでいました。
実はグイスカルド公は、息子のコッラディーノの嫁にと、クトー家にエレオノーラと息子の結婚を申しこんでいたのです。
しかし賭けごとのために領地を切り売りしているグイスカルド公の噂は、クトー男爵の耳にも届いていました。
エレオノーラの結婚持参金もグイスカルド公の賭け代に消えてしまうだろうことを想像したクトー男爵は、グイスカルド公の申し出を断りました。
しかし、そのまま引きさがるグイスカルド公ではありません。
グイスカルド公は復讐の時を狙い、クトー家を内偵させているのです。


とくれば、冒頭部分の若者を襲った悪者は、グイスカルド公の手下だったに違いありません。
伯爵夫人が息子のために採用した誰かを装って、何くわぬ顔をして旅の一行に加わったのです。

さてさて、一行はパルマに立寄り、フィレンツェを目指す途中、盗賊に襲われてしまいます。
ルーチョが私用で一行と離れた隙のできごとでした。
しばらく、盗賊のアジトで過ごすことになった一行でしたが、この間、ディオニージは盗賊の頭の娘、ロザウラと恋に落ちます。


う〜ん、どうもミステリーから離れてきました。

ルーチョが盗賊のアジトを突きとめ、一行を助け出し、身代金等についても解決。
一行は先を急ぎます。パレルモのクトー男爵との約束の期日までに、パレルモに着かなくてはなりません。
フィレンツェを見学する予定はすべてキャンセル、ローマでは食中毒騒動、ナポリから乗った船では船酔い、と紆余曲折しながらもどうにかパレルモへ到着。
結婚なんて……と無関心を装っていたフィリベルトは、婚約者エレオノーラを見た途端、まさに一目惚れ。
盗賊の娘ロザウロに迎えに行くと約束していたディオニージは、これでフィリベルトも快く二人の結婚を了承してくれるに違いないと胸をなでおろし、すべて丸く治まりかけたところで、最後の事件が起こります。


男爵家には、太陽の光に当たることのできないひとり息子マンフレディがいました。
マンフレディはいつも日光を遮断した暗い部屋に閉じこもり暮らしています。
実は、グイスカルド公が狙っていたのはこのマンフレディの命でした。そのことに気づいたルーチョは、マンフレディに成りすまし、彼のベッドに潜って敵を待ちました。
まず、本物のオットニエーロを襲って、オットニエーロを装い、旅に同行した男が襲ってくるのですが、これは無事に倒します。
しかしその直後、既に男爵家の召使いとして働いていたグイスカルド公の手下が、ルーチョに襲いかかり、ルーチョは命を落としてしまいました。
そのおかげで、マンフレディの命は助かります。
旅は無事に終わり、時が過ぎ、ロザウラとの子どもを待つディオニージからの手紙を、家庭教師のジェンティーニが受けとり、物語は終わりです。


まず、タイトルですが、原題を直訳すると『わたしが誰だか、このわたしに聞きなさい』。
てっきり、冒頭部分で若者を襲った何者かの挑戦的な発言だと思っていました。
そしたら、この言葉、ディオニージがロザウラに書いたラブレターの一文。
この旅ですっかり成長し、大人になった自分をアピールしての言葉でした!
でも、この表紙の顔、どう見ても女の子だし、何だかやっぱり主題は恋愛?

まずここでがっかり。
そして、この18世紀のわざわざ美術ガイドまでつけての長旅。
ある意味、18世紀のイタリアガイドになっているのでは? という期待も見事に裏切られ……
だって、フィレンツェもローマもナポリもろくに見学しないんだもの。

グイスカルド公のクトー男爵への復讐も、いまひとつ。
これだったら、なにも旅の最初から手下を潜入させることなかったんじゃないの?
という不満がたくさん残る一冊でした。

イタリアの、わくわくするようなミステリーと出会いたいものです(涙)。
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by arinko-s | 2011-02-23 21:52 | 読書 イタリア語

Sette volte gatto

著者は、ドメニカ・ルチャーニ、題名は『7回生きたねこ』。
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主人公は、黒ネコ。
最初の人生は、ナイル流域。黒ネコは人々から、聖なる命とあがめられていました。
ある時、黒ネコはナイル川に映った自分の姿を見て驚きます。

水に映っていたのは、真っ黒な姿。しかし、黒ひげの中に、一本だけ真っ白に輝くひげが生えていました。それは、まるで夜の空に輝く月の光線のよう。
黒ネコは、自分のことを「月ひげ」と呼ぶようになり、以降の人生でもこの白いひげを大切にし続けます。

黒ネコの4人めの飼い主は、恋する女の子。
しかし、彼女は父親の強い反対にあい、自殺してしまいます。
道連れにしたのは、ペットの黒ネコ。
黒ネコは飼い主に毒を飲まされ、死んでしまいました。

次に、黒ネコが目をさますと、それは母親の胸元でした。兄弟と一緒に、暖かなミルクを飲んでいたのです。
そう、黒ネコは2度目の人生を生きはじめたのです。
それは、エトルリア時代の海に囲まれた土地。
またしても黒ネコは、幾人かの主人に飼われ、そして最後はこの土地に攻め込んできたローマ人に殺されてしまいました。

次に、黒ネコは寒さで目をさましました。
それは、中世ドイツの森の中…

という具合に、人生をくり返した黒ネコ。
ロシア革命時のロシア、産業革命後のイギリス、第二次世界大戦時のフランス、そして現代のニューヨーク。
7度目の人生では、キャットフードのCM出演にかり出され、そこで出会ったメス猫と恋に落ちて、物語は終わります。

これは……
日本のロングベストセラー絵本『100万回生きたねこ』と、ねこが生きた回数は違えども、あらすじはまったくいっしょではないですか!
もちろん、こちらの『7回生きたねこ』は、物語が主人公の黒ネコの視点で語られるのに対し、『100万回』のほうは、第3者の語り口で物語が進んだり、
あるいは、『7回』のほうは、それぞれの人生の時代設定がかなり具体的だったりと、大きく異なる点も少なくありません。
でも、ねこが人生をくり返し、最後に愛するパートナーを見つけるという点はそっくり。
人生の終え方が、ちょっと残酷なところも同じです。

『100万回』のほうは絵本ですから、ひとつひとつの人生が、さらっと終わるし、もちろん100万回分の人生を語っているわけではありません。
それに対し『7回』のほうは、ひとつひとつの人生についてのエピソードがそれぞれ長く、黒ネコの目で見た人間界がおもしろおかしく描かれていて、ゲラゲラ笑ってしまう箇所も多々ありました。

それにしても、こんなふうに遠く離れた土地で同じような物語が生まれるなんて、すごい偶然。
もちろん、『7回』の著者ドメニカ・ルチャーニが『100万回』の英訳か仏訳かを読んでインスピレーションを得たと考えるほうが自然なのかもしれませんが、でもそうではなく、本当にたまたま同じような物語が両方の国で愛されていると思いたい。

ちなみに『7回』のほうは、二年に一度、優れた児童文学に贈られる「ピッピ賞」を2000年に受賞しています。
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by arinko-s | 2010-12-24 20:42 | 読書 イタリア語

ウリッセースとユリシーズ

一週間以上、風邪をこじらせ気分の優れない日々を過ごしていました。
その間に読んだ本がこれ。
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表紙に描かれたお屋敷に引っ越してきたばかりの双子の兄妹とその友だちの、3人の冒険物語なのですが、これがフラフラする頭で「もう少し、もう少し」と読むのを止められないおもしろさ。
これは、どこかの出版社に売り込まなくちゃ、なんて思いながら読んでおりました。
途中、まさかすでに出版されてないだろうねぇ、とアマゾンでチェック。
ウリッセース・ムーアと検索しても何も出てきません。
よしよし、と思っていたのですが…

で昨日、マッサージしてもらいにいった帰り、本屋さんチェック。
あれこれ眺めていると、なんだか妙に引っかかる本が。
タイトルは「ユリシーズ・ムーアと時の扉」。
えっ、まさか、これは…

そうなんです、ウリッセースはローマ神話にも出てくるラテン語名、ユリシーズは英語名。
舞台はイギリスなので、当然ユリシーズと訳すべきなんでしょうね。
まったく、気づいていませんでした。
ああ、わたしのばか!

でもって、この本のシリーズの訳者は、英語児童文学の翻訳者の第一人者ともいうべき金原端人さん。
ここで、もう一度、えっ、まさか、って声を出しそうになってしまいました。
つまり、この本、原作はイタリア語なのに、英語から翻訳されているのです。
その昔、イタリア語など学ぶ人がほとんどいなかった時代は二重翻訳も当たり前だったと聞きますが、今の時代に、そんなことが行われているなんて〜〜〜。

先日、『赤ちゃんは魔女』を読んでくださった方が「イタリアの児童文学が紹介されることは少ない」ということを書かれているのを見つけたばかり。
ホント、これじゃだれもこの物語がイタリア人の書いたお話だとは気づきません。

声を大にして言いたい!
今どき、二重翻訳なんてありえない!!
英語専門の方は分母が多いのだから、わざわざ他言語のものまで手を出さないで〜〜〜。
って、せっかくしてもらったマッサージの夢心地もどこかに飛んで、く〜〜〜って悔しくなりながら帰ってきました。
シリーズ物の続きを、悔しいからイタリア語で読みつづけるべきか、それともひとつ妥協して日本語で読むべきか、悩みます。
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by arinko-s | 2010-12-20 21:33 | 読書 イタリア語

重っ!

一昨日、ようやくイタリアから届いた荷物。大きな段ボール、ひと箱分の本とDVDです。
といっても、最近はイタリア語仲間数名で一緒に注文するので、わたし一人分ではないのですが。
それにしても、すごい荷物。
注文リストのうち、一冊だけいつまでも引っかかっていて(出版社からの取り寄せに時間がかかっていたのだと思う)、わたしのこの一冊のせいで皆さんをお待たせするのは心苦しく、結局その一冊はキャンセル。
でも、それで正解。
これだけでも、読むのに相当時間かかりそうです。

さっそく、パラパラめくって、期待はずれが一冊、期待以上が一冊、あと残りはじっくり読んでみなくちゃわからないといったところ。
というのも、ネット書店の情報が、表紙とページ数と出版年、出版社だけなので、頼りはレビューなのですが、届いてみてがっかりということもままあるのです。
開いてみて、「なんだあ、こういう本か〜〜〜」とか、「え〜、おもしろいって書いてあったのに〜」とか。

読んでみてがっかりすることも多々あります。
途中まではぐいぐい引きずり込まれる物語でも、ある場面で「なんだ、これ?」ってなってしまう話もあるし、宗教的な教えが絡んでくると、それも難しい。
それから、ひたすら韻を踏んでいるような絵本も難しい。
あるいは、とってもおもしろいのに、「きっと日本では受け入れられないだろうな〜、残念」ということも。
もちろん、翻訳するには、ということです。

例えば、以前読んだものになりますが、『CARO JHONNY DEEP』(『親愛なるジョニー・デップさま』)という本があります。
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主人公は13歳の少女、サラ。
絵と文章が得意なサラは、映画の脚本家になることを夢みています。
もちろん、映画が大好き。中でも、ジョニー・デップの大ファン。彼の映画は一本残らず見ているほど。

サラは「将来自分はジョニーと結ばれる」と本気で信じています。
そして、ジョニーと出会ったときに渡せるようにと、日々のできごとをジョニー宛の手紙に綴り続けています。
手紙の書き出しは、『親愛なるジョニー・デップさま』。
全編、このジョニー宛の手紙、あるいは日記によって、サラを巡る物語は進みます。

サラの書く手紙は、ファンレターでもなければ、単なるラブレターでもありません。
将来のパートナーであるジョニーには包み隠さず自分の気持ちを伝えるべき、とでも思っているかのように、率直な言葉で、身の回りの出来事や、自分が今考えていることを書き続けます。

この手紙の読み手は、サラにとってあくまでもジョニー・デップです。
俳優の彼に宛てた手紙であり、そして、サラ自身が熱烈な映画ファンであり脚本家をめざしていることから、ある種の映画評論にもなっています。
そこがおもしろい。

また、包み隠さず書かれた言葉は、ティーンエイジャーの本音と日常を映し出していて、歯がゆくなったり、共感したり、笑えたり。
今のわたしには、ほろ苦い懐かしささえ感じられる本でした。

先日、今年度のバンカッレリーノ賞(子どもたちが審査員を務める児童文学賞)受賞作『IL PASSATO RITORNA』について触れましたが、
この『CARO JHONNY DEEP』は2006年に同賞を受賞し、今も大人気の一冊です。
著者はシルヴィア・ロンカッリア。人気の児童文学作家です。

で、話を元に戻すと、イタリアの子どもたちには大好評のこの本が、日本では難しいと思われる理由です。
日本の小中学生は、それほどハリウッドスターに興味を持たないから!!
もちろん『パイレーツ・オブ・カリビアン』の大ヒットにより、ジョニー・デップの名前くらい知っているかもしれませんが、キャーキャーいう対象ではない。
一方、イタリアではというと、ハリウッドスター人気ですね〜。

この違いって何だろう? と考えたとき、思いついたことがひとつ。
日本にはジャニーズがいるからにちがいありません。
キャーキャー騒ぐ対象のアイドルが、たっくさんいすぎて、ハリウッドスターにまでたどりつかないのかも。
ジャニーズがいなかったら、ジョニー・デップの人気ももっとキャーキャーいわれるものになっていたかもなあ〜。
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by arinko-s | 2010-12-01 20:35 | 読書 イタリア語

LA BAMBINAIA FRANCESE 3

『フランス人の子守り』の続きです。

エドゥワールが去ってしまったあと、セリーヌは今後の生活について、市民侯爵に相談にのってもらいます。
市民侯爵は、セリーヌの家で学校を続けることを条件に、セリーヌの家に引っ越してきます。そして、経済的な面で援助してやるのです。
セリーヌは、真っ先にトゥーサンの身分を解放してあげました。自由の身となったトゥーサンは、セリーヌの元で、さらに勉強に励みます。
もちろん、他に行く場所のないソフィーのことも、セリーヌは捨てたりしませんでした。
ソフィーとトゥーサンが、どれほどセリーヌに感謝していたか、どれほど慕っていたか、想像に難くありません。

しかし、その幸せな日々は、長く続きませんでした。
市民侯爵が病をこじらせ、亡くなってしまったのです。
すると、すぐさま侯爵の孫たちがセリーヌの家におしかけてきて、
「市民侯爵の財産を、だまし取った」として、セリーヌを警察につきだします。
トゥーサンは、再び奴隷として売られてしまいました。身分解放証明書を見つけることができなかったのです。
ソフィーはアデュルを連れて、近所の洗濯屋に居候させてもらうことになります。
トゥーサンとソフィーは、どうにか連絡を取りながら、セリーヌを助けようと画策します。しかし、市民侯爵がいなくなってしまった今、子どもふたりの力ではどうにもなりません。

そんなある日、この騒動の噂を聞いたエドゥワールが、洗濯屋の奥さんに「アデュルをイギリスに引き取りたい」と申し出ます。もちろん洗濯屋の奥さんは二つ返事で了解します。
ソフィーはアデュルに、まだひとりでは何もできない振りをさせました。一緒にイギリスについていくためです。
そしてふたりは、エドゥワールと共に、イギリスへ渡りました。

ここから、ようやく『ジェーン・エア』と話がシンクロしはじめます!!

イギリスの屋敷ソーンフィールドでは、エドゥワールはロチェスターと呼ばれていました。
ソフィーたちがソーンフィールドへやってきてしばらくすると、ロチェスターとその伯母は、アデュルに家庭教師をつけることを決めます。
そして、やってきた家庭教師がジェーン・エアなのです。

『ジェーン・エア』のあらすじどおり、ロチェスターとジェーン・エアは恋におち、結婚を決めます。しかし、結婚式の朝、ロチェスターには妻のいることが発覚。傷ついたジェーン・エアはソーンフィールドを去り、屋敷は火事で燃え落ちてしまう…

ソフィーたちがイギリスへ渡ってから、パリでは、トゥーサンがひとり、セリーヌを牢屋から出そうと奮闘していました。学校の同級生だったオランプの祖母の力添えで、やっとのことセリーヌを見つけだし、そして、オランプの家に連れて帰ることができました。
セリーヌは精神的ショックから記憶がなくなっていましたが、あるとき自分が隠していた書類が出てきたことで、正気を取り戻します。

そこで、トゥーサンとオランプは、アデュルとソフィーを迎えにイギリスへ渡ります。
ソーンフィールドからふたりが逃げ出したのは、結婚式の当日。狂人だとされ監禁されていたロチェスターの妻、ベルタも一緒に連れて屋敷をあとにしました。

そして、皆が無事にフランスに戻り、元の生活を取り戻してから2年。セリーヌ、ソフィー、トゥーサン、アデュル、そしてベルタはキューバ行きの船に乗ります。トゥーサンの故郷でもある中南米で、それぞれ新しい生活を始めることに決めたのでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

という、なが〜いお話。
ピッツォルノは『赤ちゃんは魔女』のような、中編の物語もたくさん書いていますが、こんなに長い小説も書いている作家なのです。
イタリアでは、この本は児童書として扱われていますが、日本だったらヤングアダルトの分野かな?

もちろん『ジェーン・エア』を知らない人も、充分物語を楽しめます。むしろ、知らないほうが、先入観なく読めていいかもしれません。
なにしろ、ロチェスター(エドゥワール)が、いや〜な男に描かれているので、『ジェーン・エア』ファンには、違和感があるかも。

わたし自身は、一気読みでした。読みおわるのがもったいなかったくらい。
セリーヌの大ファンになり、ソフィーのけなげさに心打たれ、トゥーサンの明るさに救われ…。
セリーヌが牢屋の中で、他の囚人たちにリンチをうけたり(顔が知られていたため)、記憶をなくしてしまうところ、そして記憶を取り戻すところでは、涙がポロポロこぼれちゃうほどでした。

市民侯爵がセリーヌの家で暮らしている間、セリーヌの家は多くの文化人や知識人の集うサロンとなります。ヴィクトル・ユゴーやアレクサンドル・デュマ、バルザック、ロッシーニ…
また、『ノーサンガー修道院』『フランケンシュタイン』『ノートルダム・ド・パリ』など、多くの小説や詩も登場します。
文学だけでなく、オペラ座で催された劇やバレエ、あるいは絵画や音楽などの話も多くあり、当時のパリの文化や風潮を教えてくれる物語でもありました。
今となっては偉人と呼ばれる文化人たちのエピソードも数多く盛り込まれ、それも物語を何倍にも読み応えあるものにしています。

実は、初めて「翻訳してみたい」と思ったのは、この小説でした。
時間のある時に、コツコツ訳し、200ページ以上日本語にしてみたんだよなあ。
いつの日か、その汗と涙の結晶が、日の目を見ることがあればいいけれど。
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by arinko-s | 2010-11-23 20:31 | 読書 イタリア語

LA BAMBINAIA FRANCESE 2

『フランス人の子守り』の続きです。

ヴァレリーナ、セリーヌは、結婚・出産を機に、舞台を休んでいました。夫のエドゥワールは、セリーヌが復帰することを快く思っていません。
セリーヌたちの間には、7ヶ月になる女の子、アデュルがいます。
その他、大勢の住み込み家政婦に、御者もいます。
そして、黒人の男の子、トゥーサンがいます。

トゥーサンは、ハイチからパリに連れられてきた少年。
エドゥワールがセリーヌを喜ばせようと、買ってきたのです。
しかし、奴隷制度に反対しているセリーヌは、エドゥワールに内緒で、トゥーサンを弟のようにかわいがっています。
夫には内緒で、学校にも通わせていました。

トゥーサンが通っている学校は、ボーフォー侯爵が開いている個人教室です。
侯爵は、セリーヌの名付け親であり、芸術家だったセリーヌの両親のパトロンでもありました。
この学校には、身分制度に反対している上流階級の子どもや、様々な事情で公立の学校に通えない子どもたちが来ています。
教室は、侯爵の自宅。お天気が良ければ、校外学習に出かけ、スケッチしたり、植物や生物を観察して学ぶのです。

侯爵は、若いころからの啓蒙主義者。フランス革命には、市民の側にたって参加した人物です。
貴族の出でありながら、その恩恵に浴することはありません。
そんな彼を、孫たちは「気が狂っている」とふれまわり、「市民侯爵」と揶揄しています。
本人は、そんなこともまったく気にかけず、むしろ「市民侯爵」という呼び名が気に入り、自らこの名で呼ばれることを好んでいるほどでした。

さて、ソフィーの話に戻ります。
セリーヌからブラウスの代金を受け取り、これで家を追い出されずにすむ、と喜んで家に帰ったものの、すでに母親は帰らぬ人となっていました。

ソフィーを送ってきたトゥーサンは、セリーヌの家に戻ると、このことをセリーヌに報告します。
すると、セリーヌはためらうことなくソフィーを引き取ることを決めたのです。エドゥワールには、アデュルの子もりをしてもらう、ということにしました。
エドゥワールにとって、大切なのは、その子もりにいくらかかるのか、ということだけ。家においてやるだけだ、というと、あえて反対もしませんでした。

ソフィーが母親を墓地に埋葬した日、トゥーサンはソフィーを迎えに行きます。
夢のような申し出に、ソフィーは戸惑いますが、「アデュルのことは、必ずわたしが守ります」と精一杯の約束をして、お世話になることを決めました。

ソフィーがセリーヌたちと暮らすようになって、すぐのこと。
エドゥワールは母国イギリスへと、商用のため旅立っていきました。
一度イギリスへ行ってしまえば、何日も連絡がありません。いったいいつパリに戻るのか、セリーヌにもわからないのです。

その間、セリーヌは、バレエのレッスンを再開しました。
ちょうどそのころ、パリの町は次のオペラ座での公演の話題でいっぱいでした。
『妖精』と題されたその舞台は、今までのバレエの概念を覆すような舞台だと、噂になっていたのです。
セリーヌも、かつての同僚たちを応援しに、「お手伝い」という名目でオペラ座の練習に通いはじめました。
ある日、リハーサル中にひとりのバレリーナが怪我をしています。
そして、セリーヌが代役を務めることになるのです。

舞台初日、運の悪いことに、エドゥワールが突然帰宅します。
エドゥワールは、セリーヌが内緒で舞台に復帰したことを知り、激怒します。そして、これを理由に、離縁を申し渡すのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、まだまだ物語は続きます。
とりあえず「フランス人の子守り」が、ソフィーをさしていることはわかったかと思いますが、
『ジェーン・エア』には、まだまだ遠い。
この続きは、また今度。
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by arinko-s | 2010-11-16 21:26 | 読書 イタリア語