ブログトップ

本日のイタリア語

cucu2.exblog.jp

タグ:映画 ( 50 ) タグの人気記事

Nessuno mi può giudicare

b0171200_1115633.jpg

2011年の『Nastri d'Argento』(銀のリボン賞 イタリア映画のための映画賞)、コメディー映画部門を受賞した作品です。
タイトルを直訳すると「誰もわたしを評価できない」ですが、「自分の価値基準でわたしを判断しないでね」ってことだと思います。

主人公のアリーチェ(Paola Cortellesi パオラ・コルテッレージ 写真右)はローマ北部のお屋敷で暮らすマダム。
会社を経営する夫と9歳になる息子と、華やかな生活を送っていました。
ところが夫婦の結婚記念日を祝うパーティーの当日、夫が交通事故で亡くなってしまいました。
残されたのは、莫大な借金。
期限までに返済しなくては、息子の養育もできないとみなされ、息子は施設に引きとられることになってしまいます。

屋敷も売り払い、使用人たちにも別れを告げざるを得なくなったアリーチェ。
行き場のなくなったアリーチェ親子を助けてくれたのは、元使用人のアジズでした。
彼の暮らすアパートの、屋上にある小屋に、わずかばかりの荷物を持って落ちついたアリーチェ。
そこは移民だらけの庶民が暮らす町。元の家とは比べ物にはならない、じめじめとしたおんぼろ小屋で暮らすはめになったのですから、ため息も出ようというもの。

しかし、しょげてばかりはいられません。
アリーチェはさっそく、借金返済のため、そして生活のため、仕事を探しはじめました。
けれども世の中、甘くない。
短期間で稼ぐ手段などそうそうあるわけもなく……
アリーチェは、一大決心をしました。
コールガールになったのです!

仕事が軌道に乗りはじめた一方で、アリーチェは近所のインターネットポイントを経営するジュリオ(Raoul Bova ラオウル・ボーヴァ 写真中)を好きになっていきます。
もちろんコールガールをしていることは内緒でした。
借金返済のめども立ち、コールガールは卒業、ジュリオと大手を振って付き合える、と思った矢先。
コールガールをしていることがジュリオにばれてしまい……

というお話です。
移民の使用人を鼻であしらい、貧しい人たちを小ばかにしていたアリーチェが、その移民や貧しい人たちに助けられ、おまけに軽べつしていたコールガールという職業に救われ、偏見をなくしていくという物語。
コールガールをしている女性にも、せざるを得ない理由があるのだと、身を持って知ったわけですね(もちろん好きでしている人もいるかもしれませんが)。
世の中その立場にならなくてはわからないことばかりですが、でもせめて想像力で人の立場をおもんばかることはできるはず。
それができないようだと、それほど痛いものはない、と物語冒頭の傲慢なアリーチェを見てつくづく。

イタリア語でコールガールは「escort エスコート」と英語を使います。
この言葉を頻繁に聞くようになったのはここ2〜3年のこと。
ベルルスコーニ前首相がエスコートの女性を自宅に呼んで、未成年を買春したのではないか、という疑惑がもたれるようになってからのことだと思います。
最初「エスコート」「エスコート」と聞くたびに、?? だったのですが、今やこの言葉を聞くとベルルスコーニのにやける顔が浮かんでしまう。

写真左の男性は、アリーチェの引っ越し先の門番をしている男性。
移民だらけのこの界隈にうんざりしている、超razzista(人種差別主義者)です。もちろん、自分では「オレは人種差別なんかしないよ」って否定しているんですけどね。
でもアリーチェがイタリア人だと確認すると、それだけで「Brava!(ブラーヴァ!)」と褒める。
その彼の台詞が印象的でした。
「あいつらアフリカ人はアメリカに行って、奴隷になるしかなかったけど、オレたちイタリア人は違うぜ」と。

Invece noi italiani, quando siamo andati in America, subito abbiamo creato la Mafia, lo vedi che proprio un'altro livello di organizzazione di creatività è il Made in Italy!

オレたちイタリア人は、アメリカに行ってすぐにマフィアを生んだじゃないか。
もうひとつの創造力のたまものは、メイド・イン・イタリーさ、違うか?

マフィアとメイド・イン・イタリー! 確かに現代イタリア人の二大産物かもね。
今や世界中が、メイド・イン・チャイナとファストファッションブランドに席巻されていますが……。

でも、このおじさんも最後は黒人の彼女を作ってイチャイチャ。
偏見を捨てることが幸福への近道、ってことですね。

アリーチェ役のパオラ・コルテッレージは『C'è chi dice no』で、イルマを演じた女優さん。
b0171200_16314911.jpg

監督はMassimiliano Bruno(マッシミリアーノ・ブルーノ)です。
[PR]
by arinko-s | 2012-01-06 17:00 | 映画 イタリア

C'è chi dice no ノーという人だっているんだ

b0171200_109568.jpg

今春に公開された映画。監督はGiambattista Avellino(ジャンバッティスタ・アヴェッリーノ)です。

新聞社で働くマックス(LucaArgentero ルーカ・アルジェンテーロ、写真中央)、医者のイルマ(Paola Cortellesi パオラ・コルテッレージ、写真左)、大学助手のサムエーレ(Paolo Ruffini パオロ・ルッフィーニ、写真右)の3人は、高校時代のクラスメート。
それぞれ、臨時職員として働き、いよいよ本採用も間近と(サムエーレは論文コンクール受賞を)期待していたその矢先。
マックスは有名作家の娘に、イルマは医長の恋人に、サムエーレは教授の娘婿に、それぞれそのポストを奪われてしまいます。
強力なコネを使った3人が、マックスたち3人の夢を打ち砕いたというわけです。

腹わた煮えくり返るマックスたち3人は同盟を組み、自分たちがつくはずだったポストにちゃっかり収まったコネ組3人に嫌がらせをして、そのポストからどかしてしまおうという作戦に出ました。
もちろん、自分を邪魔した相手を攻撃して、すぐに誰の仕業かばれてしまっては元も子もありません。
それぞれ、仲間の相手に嫌がらせをすることにしたのです。
それも徹底的に。

イルマの代わりに医局に正採用された医長の恋人は、その執拗な嫌がらせを「マフィアのしわざにちがいない」と恐れをなして逃げていきました。
マックスの代わりに正社員として採用された作家の娘は、嫌がらせとは関係なくマックスに恋をし、父親に「彼のことも編集長に推薦してちょうだい」とねだります。
そして推薦を受けたマックスは、願い通りに正記者の座を射止めました。
うん?? コネ社会を憎んでいたはずの本人がコネを使って職を射止めるとは!

イルマとサムエーレにこのことがばれて、3人の関係がぎくしゃくしだしたものの、マックスは自分の地位を利用して、サムエーレの大学のコネにまみれた実情を暴くことに。
そして3人は大学の講演会で、大学がコネだらけで機能しているという絶対的な証拠を観客に見せ、「こんなコネ社会に、わたしたちは断固ノーという! 仕事だけじゃなく、若者の夢まで奪うコネなんかくそくらえ!」と大暴れ。

その結果、3人は警官に逮捕され、ゼロからの再出発を余儀なくされます。
せっかくつかんだ職も失ってしまったけれど、でもはっきり抗議の意思を示したことに3人は大満足でした。

というのがあらすじです。
イタリアがコネ社会だという話は、よく聞きますが、本当にこんなにひどい?
少なくとも医者という職業は、コネがなくとも仕事場を見つけるのはそう難しいことではないと思っていました。

ところが、イタリアでは医者の資格を持っていようとも、就職困難。
コネがなければ医者と言えども、「今の時代、就職できない」というのです。
え〜〜〜、都会が難しくても医療僻地に行くという手もあるでしょ、と思うのだけれどなあ。
もし本当に、努力して、しかもかなりの努力をして資格を取った人たちまでも、コネがなければどうにもならない世の中だとしたら、悲しすぎます。
そりゃ、最初から先が見えていたら、努力するのやめちゃうよなあ、って思います。

日本だってかなりのコネ社会。
だとわたしは、思っています。
コネがないところに飛び込むのは、かなり勇気がいります。
小さなつてでもあるのとないのとでは大違いだし、コネは大事にしろ、とはよくいわれること。

でも、コネを使った人こそ、実力がなくてはすぐにまずいことになってしまう気がします。
コネなんてスタートラインに立つ時に役立つだけのものかと思っていましたが、そこがイタリアとの大きな違いらしい。
もちろんコネがなくてはスタートラインにさえ立たせてもらえないというのは、本当にひどい話だと思うのだけれど、
その上、コネで職を得た人たちは、たとえ実力がなくとも安穏とその職に居つづけることができるというのです!
そりゃ、ますますひどい。
日本だったら、実力無くしてはすぐに窓際に追いやられてしまうのでは。
それどころか、本人も肩身が狭くて、自ら身を引いてしまいそうなものです。
確かに映画の中でも、コネで新聞社に入社した作家の娘は、空気を読めずに周囲にうんざりされていましたが、まったく意に介しない様子でした(余談ですが、この娘役のMyriam Catania ミリアム・カターニャは、マックス役のルーカ・アルジェンテーロの実の奥さん)。

う〜〜ん、コネのないイタリア人は辛いなあ、ってある意味同情するのですが、でも、この3人のしていることにはまったく共感できない!
もちろん、わたしだって思います。いいよなあ、コネのある人は、って。
でもだからって、その人に嫌がらせするのって筋違いでしょ。
え〜〜、え〜〜〜、ってずっと首傾げたまま、映画が終わってしまった。

そんなことをしても、コネ第一の社会が変わるわけないと思うけどな。
知性派のお三方、もっと知恵を絞って社会を変えてくれ!
[PR]
by arinko-s | 2011-12-26 22:42 | 映画 イタリア

La meglio gioventù 輝ける青春

b0171200_19432944.jpg

2003年の映画。Marco Tullio Giordana(マルコ・トゥッリオ・ジョルダーナ)監督の作品です。

1966年の夏から2003年の春まで、ニコラ(Luigi Lo Cascio ルイージ・ロ・カーショ)とマッテオ(Alessio Boni アレッシオ・ボーニ)の兄弟を軸に描かれたある家族の物語。
それぞれ大学生活を謳歌し、お互いを尊重しあいながら行動を共にしていた2人の兄弟でしたが、マッテオが精神病院のボランティアでジョルジア(Jasmine Trinca ジャスミン・トリンカ 写真上)という少女に出会ったことで、2人の進む道が大きく変わっていきます。

病院でジョルジアが不当な扱いを受けていることに気づいたマッテオは、ジョルジアを病院から連れ出し、ニコラと共にジョルジアの父親の元に送り届けようとするのですが、これが失敗に終わってしまいます。
ジョルジアは警察官に捕まり、強制的に病院に戻されることになってしまったのです。
このことが、2人の心にそれぞれ深く陰を落とすようになるのです。

元々医学部に通っていたニコラは、故郷ローマを離れトリノ大学へ編入。精神科医を目指します。
一方マッテオは、大学を中退して入隊。兵役を終えた後は警察官になることを希望します。
ニコラは大学時代に人生のパートナーを見つけ娘を授かるものの、幸せは長くは続きません。妻はテロ組織に入り、その活動にのめり込んでいくのです。

一方、自分の意志を殺し組織に組み込まれることを望んだマッテオは、社会の闇の部分を目の当たりにし、いっそう絶望感を深めて行きます。一個人の力の限界を感じ、もがき苦しみます。
けれどもローマ市警に配属になり故郷に戻ったマッテオは、かつてシチリアのパレルモ勤務時代に出会ったミレッラ(Maya sansa マヤ・サンサ)と再会し笑顔を取り戻します。
ミレッラの押しの強さにマッテオの気持ちも傾いたかのように見えますが、なぜだかマッテオは深入りすることを避けるように。
そしてミレッラと大げんかした末に、マッテオは自らの死を選んでしまいました。

突然のマッテオの死に戸惑い悲しむ家族。
現実を受け入れられずにいたニコラでしたが、ある日マッテオの突き刺すような瞳と再会します。
かつてシチリアでミレッラが写したマッテオの写真です。
この写真が出展された写真展のポスターでした。

ニコラの病院に入院していたジョルジアは、その写真を撮ったカメラマンに会いに行くようニコラに強く迫ります。
ニコラはその言葉に背中を押され、シチリアへミレッラを訪ねます。
するとそこには……。

66年のフィレンツェの大洪水、68年の学生運動、70年代の「赤い旅団」、シチリアマフィアの台頭、92年のファルコーネ暗殺などなど、史実を交えながら進むストーリーは、まさにその時代のイタリアに身を置いていたような錯覚を抱かせてくれます。
その多くは、イタリアで出会った友人、知人が当時の様子を教えてくれたできごとです。
それが映像として写しだされ、まるで自分もその場にいたかのような、少なくともタイムリーにその事実に衝撃を受けてきたかのような、そんな気分になりました。
登場人物に共感して笑ったり、ほろっとしたり。と同時にイタリア現代史にもハラハラしたり興奮したりしちゃうわけです。
それぞれのできごとをテーマにして描かれたわけでなく、たまたまこの家族の物語の背景にそんなできごとがあったという描かれ方だからこそ、リアリティが感じられるのかもしれません。

実は「まだ観ていないの???」と驚かれ、慌てて手にした一本でした。
366分という長さに気後れしていたのです。
これを観るならばこの三連休しかないと一念発起。素直に観て良かったです。

長い歳月を追ったストーリーなので、もちろん谷あり山あり。切なくやるせないシーンも幾つもありました。
そんなこと言うなよ〜〜、と思わず口にしてしまったのは、大学の試験で優秀な成績を収めたニコラに、教授が「イタリアを捨ててよその国へ行きなさい」と助言するシーン。

L’Italia è un paese da distruggere.
Un posto bello, inutile, destinato morire.
イタリアは滅びゆく国だ。
美しい国だが、無益で、やがて絶える運命にあるんだ。

もちろんこの言葉の裏に、そのイタリアという国を愛する気持ちが秘められていることは充分伝わってくる映画なのですが、時期が時期だけに重たすぎる。ズシーンとのしかかってくるような台詞でした。

「イタリアは既に多くの偉人を輩出してしまったから、もう偉人を生む余力はないんだ」というイタリア人の友人の言葉を思いだしました。
いやいや、こんなに美しく人々を魅了してやまない国は多くありません。
滅びないようにがんばってくれ〜〜〜!!

b0171200_19402929.jpg

ニコラ(右)とマッテオ(左)
b0171200_19412769.jpg

さばさばと、そして強く生きるミレッラに共感。
[PR]
by arinko-s | 2011-12-24 19:42 | 映画 イタリア

Un tè con Mussolini ムッソリーニとお茶を

b0171200_20233178.jpg

アメリカ映画と知らずにイタリア語で鑑賞。
監督は『ロミオとジュリエット』(1969)、『チャンプ』(1979)で知られるフランコ・ゼッフィレッリ。
1999年の映画です。

舞台は戦時色が濃くなりつつあるフィレンツェ。
イギリスから生地を輸入している会社で働くイギリス人女性メアリーは、雇い主から突然息子ルカの世話を頼まれます。
ルカの母親は病気で既に他界。父親は、愛人に生ませたこの子どもルカを孤児院に預けていたのです。

フィレンツェに魅せられフィレンツェに暮らす友人たちに協力を求め、メアリーはルカを育てる決心をしました。

故イタリア大使の未亡人レディ・へスター。
イタリア美術をこよなく愛するアラベラ。
この2人はメアリーと同じくイギリス人です。
そしてアメリカ人の考古学者ジョージー。
玉の輿にのって芸術作品を買いあさるエルサ。
この2人はアメリカ人。

レディ・へスターは「品がない」と、アメリカ人を毛嫌いしています。
その裏で、アメリカのご婦人はじめ、フィレンツェの人たちはへスター率いるイギリス人グループを「サソリ族」と呼んで小ばかにしています。
そんな大人の事情はともかく、ルカはこのご夫人たちから様々なことを教わり、愛情をそそがれながら笑顔を取り戻していきます。

けれども戦時色はどんどん強まっていきます。
ルカの父親は勝手なもので「ジェントルマンの英語を教えてほしい」なんて言っていたくせに、手のひらを返したように「これからの時代はドイツ語だ」と、ルカをオーストリアの寄宿学校に入れてしまいました。

そして、フィレンツェでも外国人に対する暴動が起き始めます。
当然、優雅にイングリッシュティーを楽しむイギリス人たちも、その標的になってしまいます。
けれどもレディ・へスターはムッソリーニを信奉し続け、この事態に対して、ローマまでムッソリーニに直談判しに行きました。
ムッソリーニはイギリス人の身の安全を約束し、紅茶を入れて婦人をもてなしました。

しかしそんな約束はどこへやら。
その後すぐに、ムッソリーニは英仏両国に宣戦布告。
イギリス人の立場は完全に危ういものになってしまいました。
在伊イギリス人たちは次々と国外へ脱出していきます。
けれどもレディ・へスター率いる一行は、信念を曲げず、イタリアに残り続けることにしました。
なにしろレディ・へスターは『ムッソリーニとお茶を』飲んだ仲。証拠の写真も持っているし、危害が加えられるわけはない、と信じていたのです。

ところがついに、彼女たちはトラックに載せられ、サン・ジミニャーノの町へと連行されてしまいます。
イタリア軍の監視下、共同生活を強いられることになったのです。
まさに彼女たちが強制収容所に移送されるという時、すっかり青年に成長したルカがオーストリアからイタリアへ帰国しました。
ルカはサン・ジミニャーノまで足繁く通い、メアリーを精神的に支えます。

そして1941年、日本軍が真珠湾を攻撃したことにより、アメリカが日独伊に宣戦布告。
そのためにジョージーとエルサも、メアリーたちの強制収容所へ連行されてきました。
実は、ユダヤ人だったエルサ。弁護士の助けを借りて出国するはずでした。
けれどもエルサは弁護士に騙されているだけ。そのことに気づいたルカは……。

暗く重たい時代の話なのに、どこまでも明るくからっと描かれています。
なによりも、フィレンツェ、サン・ジミニャーノの景色が美しい!

そしてこの話は、監督ゼッフィレッリの半自伝だそうです。
私生児として生まれたルカが、ゼッフィレッリです。
どこまでが実話に基づいたものなのかはわかりませんが、登場人物の何人かは実在の人物のようです。
サン・ジミニャーノに強制収容所があったことや、スコットランド軍の部隊にこの町が解放されたことも実話なのかもしれません。
まったく知りませんでした。

今もトスカーナの美しさに魅せられ移住してしまうイギリス人やアメリカ人は多いと聞きます。
そうですよね、戦時中にもそういう人たちがたくさんいたのですね。
なにより羨ましいのは、このご婦人方、ウフィッツィのボッティチェリの絵を前に、イングリッシュティーを楽しんだりしちゃうのです。
なんとも贅沢! 戦争が始まる直前まで、こんなに優雅な時間が流れていたとは。

メアリーが手作りの小さな箱で作った舞台を使い、『ロミオとジュリエット』をルカに教えるシーンがあります。
シェイクスピアの英語はイギリス人にとって教科書なんですね。
とても温かいシーンのひとつでしたが、ゼッフィレッリの映画監督としての出世作が『ロミオとジュリエット』と知り納得。
こんなところにも監督の思い入れが見え隠れしています。

女優陣も超豪華メンバー。
今までどうして見たことなかったんだろうな。
イタリア好き、特にトスカーナ好きの方にはお勧めの一本です。
[PR]
by arinko-s | 2011-12-08 21:43 | 映画 ハリウッド

Giulia non esce la sera  ジュリアは夜外出しない

b0171200_17572124.jpg

作家のグイードは最新作がベストセラーになり、権威ある文学賞にもノミネートされます。
けれども実は、その仕事にやりがいを見つけられずにいました。
新作を書こうとしてもなかなか筆が進まず、途中まで書きかけても上手くまとめることができません。

グイードにはひとり娘のコスタンツァがいます。
ある日コスタンツァはいやいや通っていたスイミングスクールを「もうやめたい」と父親に告げます。
既に年間費を払っていたため、グイードは娘の代わりに自分が泳ぎを教えてもらいにプールに通い始めます。

そこで出会った先生がジュリア。ぶっきらぼうな若い女性です。
グイードは次第に彼女に惹かれていき、思いきって夕食に誘いました。
けれどもジュリアはグイードに「夜は外出できない」といいます。
実は、彼女は受刑者でした。昼間、仕事の名目で刑務所を出ることが認められているものの、夜は刑務所に戻らなくてはならなかったのです。

ジュリアには夫と娘がいました。
けれども愛人ができ、全てを捨ててその男と駆け落ちしたのでした。
しかしその男との仲はあっけなく終わり、別れを告げられると、思わずその男を殺してしまったのでした。

そんな告白をされても、グイードの気持ちは変わりませんでした。
そればかりか、娘を恋しがるジュリアの名で手紙を代筆し、二人が再会できるよう計らったのです。
けれどもそれが、ジュリアを絶望のどん底に突き落とすことになってしまうのです。
緊張するジュリアの前に現れた娘は、ジュリアにただ冷たい言葉を浴びせて帰っていきました。
改めて知った現実。
自分が引きおこしたその現実に耐えることができずに、ジュリアは刑務所の中で自殺してしまったのでした。

遺品を引きとりにくる家族もいないジュリア。それらの品はグイードに引き渡されました。
グイードはその中に日記を見つけます。
二人の出会い、グイードの泳ぎの進歩、そして修復したくてもできない娘との関係、ジュリアの絶望感。
グイードは、ジュリアの日記を読んで初めてジュリアの心の奥深くを知ったのでした。

監督はGiuseppe Piccioni(ジュゼッペ・ピッチョー二)、2009年の映画です。
悲しすぎる映画でした。
自分の犯した罪の重さを自覚し反省し償っているのに、もう取り戻すことのできない家族の愛。
でも「ひょっとしたら」って、ジュリアは思っていたに違いありません。
それはただの幻想に過ぎないと再認識して、それまで保っていた心の均衡が、一気にへなへなと崩れてしまう。
程度の差はあれ、経験あります。ああ、やっぱりそうだよね、ってがっかりすること。
でもその現実を娘に突きつけられるとは! 辛すぎる。

グイードを演じているのはValerio Mastandrea (ヴァレリオ・マスタンドレア)。
La prima cosa bellaのさえない息子ブルーノや、Tutta la vita davantiの熱血組合員を演じています。
おそらく今乗りに乗っている俳優のひとり。

ジュリアを演じているのはValeria Golino(ヴァレリア・ゴリーノ)。
RESPIROで、とってもかわいいお母さんを演じていました。
アメリカでの女優としてのキャリアも長く、『レインマン』にも出演しているそう。
どんな役だか全く覚えていませんが……。見直してみます。
Wikipediaによると、『プリティ・ウーマン』のオーディションで、ジュリア・ロバーツと共に最終選考に残っていた女優さんだそうです。
ホント、かわいいです。
でもって、Mine Vaganti で、父親の会社経営に否応なしに巻き込まれていく次男を演じていたRiccardo Scamarcio(リッカルド・スカマルチョ)の恋人だそうです。
b0171200_206362.jpg

[PR]
by arinko-s | 2011-11-28 20:19 | 映画 イタリア

TUTTA LA VITA DAVANTI 見わたすかぎり人生

b0171200_13355047.jpg

ローマ大学哲学科を最優秀の成績で卒業したマルタ。
そのまま大学に残れるかと思いきや、ポストの空きはなく職探しに奔走することになります。
何社からも断られ続け、やっと雇ってくれたのは母親と二人暮らしの子どもラーラでした。
つまり、住み込みのベビーシッター。
ラーラの母親ソニアは、コールセンターのパートタイムの仕事も紹介してくれました。

さっそくベビーシッター件テレホンオペレーターとして働きはじめたマルタ。
電話して売り込むのは、本当に効果があるのかどうかわからない浄水器。これだけでも憂鬱になろうかというものなのに、朝は女性上司からの叱咤激励メールで起こされ、会社につけばついたで、全員揃って奇妙な歌をうたいながら踊らされる。休憩時間もトイレの時間も制限され、毎日仕事終わりには、その日のアポイント件数を発表されお尻を叩かれる。
会社の異様なハイテンションぶりに、マルタは今ひとつついていけずにいます。
しかし、そこは優等生のマルタ。仕事にも遺憾なく才能を発揮し、みるみるうちにトップオペレーターに上りつめます。

そんなある日、非正規雇用者の労働組合を作った組合活動員クラウディオと出会います。
営業成績の悪い社員にはくだらない罰が与えられることや、半ば脅迫めいた台詞で訪問販売のアポイントを取らせられることなど、マルタはクラウディオに告発します。
このことが引き金となり、会社は大変な事態に……。

これが大まかなあらすじ。
最初から最後まで、驚きと笑いの連続でした。
でもよくよく考えれば、とても悲しい話なんです。
たとえ大学を優秀な成績で卒業しても正社員の仕事を見つけるのは至難の業。よく聞く話ではありますが、それがイタリアの現実。今や、迷わず外国で職を探す大学卒業生も少なくないといいます。
でもこんなばかげた仕事でも無いよりはまし。
その気持ちも、わからなくはありません。

悲しいため息が出てしまうストーリーなのですが、きちんと救いが残されています。
マルタが初めて見る世界、初めて接するタイプの女の子たち。
彼女はテレフォンオペレーターの仕事と、同僚の彼女たちが夢中になっているテレビ番組をハイデッガーの哲学と結びつけて、こつこつと論文を書いていきます。
この論文がイギリスの学術誌に認められ、掲載されることに!
一歩明るい未来に近づいたことを予感させる結末です。

いやさらに、最後の最後があります。
ベビーシッターのお相手ラーラが、将来の夢を聞かれ「哲学者になるわ」と答えて映画は終わるのですが、これも嬉しいエピソードです。
マルタが子どもにもわかるように哲学者と哲学の話をくり返し聞かせていた結果、哲学の何とやらばかりか、そのおもしろさがほんの5歳くらいの女の子に伝わったということ!
マルタは嬉しくてたまらなかったに違いありません。

イタリアの映画評サイト『My movies』のなかにこう書かれていました。
「(前略)トスカーナ出身のヴィルツィ監督は、悲喜劇的かつグロテスクなブラックコメディーの側面を強調しながら、ぞっとするような、大人の生き生きとしたミュージカル仕立ての作品に仕上げている。モニチェッリのほろ苦い喜劇の素晴しき伝統を再評価した作品といえるだろう(後略)」
モニチェッリがイタリア映画に残した軌跡は、今も脈々と受け継がれているのですね。

マルタを演じているのはIsabella Ragonese(イザベッラ・ラゴネーゼ)。
b0171200_1581987.jpg

今期待の若手女優のひとりだそうです。
とってもかわいいのですが、いつも上の写真のような格好(ミニのワンピースにショートブーツ)で、思いきりがに股に歩いている!
これも生真面目な女の子という設定の、演出のひとつ?
次に出会う時には(もちろん映画の中で)、もっと美しい歩き方をしていますように。

監督はPaolo Virzi(パオロ・ヴィルツィ)。
La prima cosa bellaNCaterina va in cittàも良かったけれど、この映画も負けず劣らず気に入りました。

ただひとつ邦題の「見わたすかぎり」が、どうも気に入らない。
原題のdavantiは「前に」です。
Caterina va in cittàの中の、カテリーナの台詞にもあったように
ヴィルツィ監督のメッセージは「前を、前に」ということだと思うのです(カテリーナの台詞はavantiが使われています。これはdavantiと同様の副詞「前へ、前に」の意味)。
つまり「人生はまだまだ前に続いている」「人生これからさ」という意味だと思うのです。
「見わたす」を広辞苑で引いてみると「遠く広く望み見る」とあります。わたしのイメージでは、周囲全体という感じ。
そりゃあ、後ろにも今まで歩んできた人生はあるんだけどね。
いやいや、もっと前だけを強調してほしかったなあ。
[PR]
by arinko-s | 2011-11-24 18:19 | 映画 イタリア

I soliti ignoti いつもの見知らぬ男たち

昨年亡くなったマリオ・モニチェッリ監督の追悼・作品上映会に行ってきました。
b0171200_1722471.jpg

1958年の作品。ヴィットリオ・ガスマン、マルチェッロ・マストロヤンニ、トト(イタリアの喜劇スター)など、そうそうたる出演者の顔ぶれです。

ペッペ(ヴィットリオ・ガスマン)、マリオ、コジモ、カパンネッレ、フェッリボッテ(鉄樽の意)、ティベリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)の5人は、簡単にお金を稼ぐための方法をあれこれ試行錯誤する日々。
つまり泥棒です。
ある時、刑務所から出てきたばかりのペッペは、ひとつの計画を思いつきました。
まずあるアパートの共有炭置き場(通りに面して金網の扉がある)を通ってそのアパートの中庭に入り、壁をよじ登って空き部屋の窓へ。
その空き部屋に窓から侵入したら、壁を壊して隣の質屋にもぐり込み、金庫を奪うというものでした。

ペッペたちはまず、泥棒の師匠ダンテ・クルチャーニ(トト)に指南を仰ぐことにしました。
クルチャーニは、今や本業ではなく「その方法」を教えて稼いでる元泥棒です。
クルチャーニの教え通りアパートに忍びこみ、どうにか壁を壊すことに成功した彼ら。ところが……

というあらすじです。
モニチェッリは喜劇映画の巨匠です。
もう笑いどころ満載。もちろん最後の、壁をやっとのこと崩したシーンは一番の大爆笑でした。
想像通り泥棒は失敗に終わるのですが、その後とっとと逃げもせずに、台所に作り置きしてあった「パスタと豆」をみんなで食べてくつろいじゃったりして。
まったく緊張感のない泥棒たちというのが、なんともイタリア的です。
b0171200_19445072.jpg


イタリア国内はもちろんのこと、アメリカでも大成功したこの映画は、ハリウッドでリメークされているそうです。それも何度も。
1984年にはション・ペーンが主演した『クラッカーズ』。
2000年のウッディ・アレンの『おいしい生活(Small Time Crooks)』も、一部この映画にインスパイアされているそうです。
2002年にはジョージ・クルーニーらが演じた『ウエルカム・トゥ・コリンウッド』が撮られています。

それほどまでにハリウッドにも影響を与えたモニチェッリ。
今観ても、笑いのツボは全く色あせておらず、日本で紹介されてこなかったのが不思議なくらいです。

実は映画上映の前に、塩野七生さんの「モニッチェッリの喜劇」についての講演会がありました。
映画に負けず劣らず、この講演会を楽しみに足を運んだのですが……
何せ「えっと」「あれっ」「なんだったかしら」が多く、正直何が言いたいのか良くわかりませんでした。
「えっと、えっと」のあと間を置いて、違う話にいってしまう!

でもその中でわかったことは
モニチェッリはイタリア人を笑い飛ばし続けた」ということ。
そして、彼の映画はどれも大ヒットしている。つまりイタリア人は自分たちを笑い飛ばすことを厭わない。
自分自身を笑い飛ばすことは、とても勇気のいること。
自分だけが正しいと思わないバランス感覚に優れている。それは自己批判能力に優れているということでもあるということ。

確かに、確かに、と頷いちゃいました。
「イタリア人てまったく!」とステレオタイプにバカにされるところを、あえて映像にしてしまったモニチェッリ。
それを観てむっとするどころか、「あはは! そうそうイタリア人てこうだよね、まったく」って笑ってしまうイタリア人たち。
素晴しい! 
自分のダメなところを笑い飛ばせるようになることって、人生を楽しむひとつの秘訣かも知れません。

それにしても、こんな講演会でも原稿作って来ないんだなあ、塩野さんは。ってそっちの方に感心することしきりの夜でした。
[PR]
by arinko-s | 2011-11-20 19:50 | 映画 イタリア

LEZIONI DI VOLO フライトレッスン

b0171200_14454922.jpg

高校卒業試験に落第してしまった“Pollo(ポッローチキンのこと)”と親友の“Curry"。
ポッロはユダヤ人、カリーは幼い時にインドから養子にもらわれてイタリアにやってきた少年です。
いつも一緒にいる二人は、皆からポッロとカリーと呼ばれているのでした。

二人はカリーの故郷、インドへ旅することを決めました。
もちろん旅費は親持ち。贅沢なホテルで快適な時間を過ごすものの、一歩外に出ればそこはカオス。
雑多な町に辟易した二人は、「宮殿を見に行って、プールで泳げるホテルに移ろう」なんて決めたものの、荷物を全て持っていかれて、路上に放り出されてしまいます。
ホテルに助けを求めようとしたものの、外見の違いからカリーはホテルにも入れてもらえず。
二人は離ればなれになってしまいました。

不運は重なり、下痢と吐き気に襲われるポッロ。
そんな彼を助け、二人を引き合わせてくれたのが、産婦人科医のキアーラ(Giovanna Mezzogiorno ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)でした。
キアーラはNPO団体のメンバーとして、医療活動に携わっています。
今まで何に対しても興味を持てずにいたポッロは、彼女と過ごすうちに次第にキアーラに惹かれていくのですが、実はキアーラには夫がいました。

一方、カリーはこの土地で自分のアイデンティティーを見つけていきます。
最初はその気もありませんでしたが、自分の育った施設を訪ねることを決意。
産みの母親に会ってみようと決めました。
ところが、その母親は既に他界してしまっていました。

というのが、簡単なあらすじです。
タイトルの『フライトレッスン』というのは、大人になるための、つまり巣立ちのためのレッスンということでしょうね。

英語でチキンといえば、臆病者のことですよね。
イタリア語でもポッロと人を呼んだら、それはいい意味ではありません。
お人好し、世間知らず、の蔑称です。
この映画のポッロくん、まさにそんなタイプを見事に演じています。
裕福な家に生まれて何ひとつ不自由のない生活をし、だからなのか、自分は何をすべきなのか何をしたらいいのかさっぱり見えない。見つける意思さえない。
いつも責任を人になすりつけて、うじうじ。
あ〜〜もう! ってじれったくなるようなタイプです。
その彼が、16歳も年上のキアーラと出会い、いろいろなことを自覚していく。
人のためにきびきびと働く彼女を見て、自分の情けなさを感じたんでしょうねぇ。
キアーラはカリーにも、厳しい言葉をびしびし浴びせます。
間違いなく彼らにフライトレッスンをしてあげたひとりは、キアーラです。

この映画のテーマのひとつでもある養子縁組ですが、実はイタリアは養子縁組大国。
それも国内の子どもを養子にするのは、手続きがより困難であることから、その多くは外国の子どもだそうです。
東欧の子が大半を占めるようですが、南米、アジア、アフリカからの子どもも少なくないとか。
もちろんイタリアでも人種差別はあると思いますが、養子に対する偏見は、日本とは比べ物にならないくらい少ないのは確かです。

おまけに、イタリアの出生率は徐々に上昇しているようですが、その上昇は移民のカップルによるというデータもあります。
生粋のイタリア人て、どんどん減っているのかもしれません。
それも時代の流れですね。

この映画は2006年の映画、監督はFrancesca Archibugi(フランチェスカ・アルギブージ)。
女性監督です。
強い女性の描き方とか、やっぱりどこか女性監督っぽい、と思いました。

それにしても、インドのシーンの後にローマが映ると、あの(!)ローマが整然として見えるから不思議です。
[PR]
by arinko-s | 2011-10-23 16:16 | 映画 イタリア

L'uomo che verrà やがて来る者

b0171200_21143026.jpg

2009年のローマ国際映画祭で審査員賞と観客賞を受賞した映画です。
監督はGiorgio Diritti(ジョルジョ・ディリッティ)。
ボローニャ近郊の村で起こったナチスによる虐殺を、主人公の8歳の少女、マルティーナの目を通して描いています。

題材となっているのは「マルツァボットの虐殺」という、実際に起こったできごとだそうです。
1944年9月29日から10月5日にかけて、マルツァボット村というエミリア・ロマーニャ州の、人口7千人弱の小さな村で起こったこの事件。
連合軍がシチリア島に上陸し、ムッソリーニが逮捕された後のこと。
ドイツ軍がイタリア半島を占領し、その一方でパルチザン蜂起が活発になり……。
連合軍が徐々に北上し各都市を解放していくものの、ドイツ軍は抵抗を続けていた、そのころのできごとです。

映画の中でも、ナチスは村人たちに容赦なく銃を向けます。
子どもにも、女性にも、老人にも。
教会に逃げ込み、必死で祈りを捧げる村人たちも撃たれます。
神父も撃たれます。
実際、この虐殺で771人(内216人が子ども)の村人と7人のパルチザン兵が亡くなったそうです。

映画のなか、マルティーナは奇跡的に生き残ります。
周りにいた人たちの血で服はどす黒く染まり、あごや腕に傷を作りながらも、マルティーナはひとり虐殺の場となった建物を逃げ出しました。
生まれたばかりの弟を助けに走ったのです。

実は、この弟の前に生まれた弟が生後すぐに亡くなってしまってから、マルティーナは口をきかなくなってしまいます。
そのマルティーナが、小さな弟をかごに入れ、あやしながら子守唄を歌ってあげるシーンで、映画は終わります。
こんな悲しすぎるできごとで、声を取り戻したマルティーナに涙涙。

このマルティーナを演じた少女、Greta Zuccheri Montanari(グレタ・ズッケリ・モンタナーリ、写真の女の子)ちゃんのかわいいこと、かわいいこと。
b0171200_21172758.jpg

じっと見つめる鋭い視線。どんなことでもお見通しだと思わせる視線です。

Ogni tanto vengono i soldati tedeschi, e io non so perché sono venuti fino a qui e non sono rimasti a casa loro con i loro bambini.
E poi ci sono ribelli che rifanno la guerra, perché dicono che se ne devono andare.
Eccola cosa che ho capito che molti vogliono ammazzare qualcuno altro.
Ma non capisco perché.

時々、ドイツ兵がやってきます。どうして彼らがこんなところまでくるのか、どうして自分の子どもたちと家で過ごさないのか、私にはわかりません。
それから、再び戦争をしようとしている反乱軍の人たち(パルチザン)がいます。戦わなくてはならない、と彼らは言います。
私にわかったことは、多くの人たちが誰か別の人を殺したがっているということです。
どうしてかはわかりません。

これはマルティーナの書いた作文です。
マルティーナは、何もかも理解していたような気がします。

タイトルの L'uomo che verrà を直訳すると「やってくるだろう人」ということですが、この「人」が誰を指しているのか、はっきりとは描かれていません。
でも、わたしはナチスのことだと思いました。

物語の中、農民たち数家族が肩を寄せあって暮らすマルティーナの家に、お腹をすかせたドイツ兵たちがやってきます。
マルティーナの家族は卵や鶏をわけてやり、ドイツ兵たちは食事をし談笑して去っていきます。
でもこの時きっと、マルティーナは、後々ナチスたちがその形相を変えてやってくることを予感していたような気がしてなりません。
このタイトルはマルティーナの言葉のように思えるのです。

もちろん解釈は人それぞれ。
こんなことがあっても、あと少しで連合軍の人がやってくる、ということかもしれません。


とにもかくにも、マルティーナと弟が手をとりあって強く生きていってくれますように、と祈らずにはいられない映画でした。

(追記)
ひとつ大切なことを書き忘れていました。
この映画、ストーリーはとても悲しいものですが、とにかく映像が美しい!
まったく知りませんでしたが、昨日(10/23)から岩波ホールで上映が始まったそう。
重たいテーマですが、あの素晴しい景色は見てほしいなあ。
[PR]
by arinko-s | 2011-10-19 21:48 | 映画 イタリア

Si può fare 人生、ここにあり!

b0171200_20502969.jpg

舞台は1983年、ミラノ。
労働組合で働く熱血男ネッロ(Claudio Biscio クラウディオ・ビーショ)が左遷され、“協同組合180”にやってきました。
ここは元精神病院付属の施設。組合とは名ばかりの組織でした。

組合員たちは、「精神病院に閉じこめられている患者を地域に戻そう」という「バザリア法」に基づき、閉鎖された病院の元患者たち。
自由の身になったものの、引き取り手もなく行く当てもない元患者たちが生活する組合だったのです。

病室に閉じこめられてはいないというものの、組合員たちは未だに薬漬け。
「自由による治療を」という法の主旨とは、ほど遠い現実でした。
やる気もなく、目的もない組合員たちを見て、熱血漢のネッロが黙っているわけありません。
組合員たちに、きちんとお金を稼げる仕事をしたくないか? と持ちかけます。
そして、「床の木組み」を、組合の仕事に掲げました。

もちろん、そう簡単に事は進みません。
精神病疾患者への偏見も強いし、彼らもなかなか上手く仕事をこなせない。
ネッロは、ポケットマネーで資材を購入したり、自宅の改装を彼らにさせたり、あの手この手で組合員たちのモチベーションを高めていきます。
ある時、資材が足りなくなってしまった現場で、組合員は知恵を絞り、廃材を使って見事な星を床に描きました。
これがクライアントの気に入り、彼ら組合の評判は一気に広まります。
そして……

という実話を元にした映画です。
監督はGIulio Manfredonia(ジュリオ・マンフレドニア)。
2008年の映画です。
イタリアでは54週ものロングランヒットを記録したそうです。

日本だったら、もっとジメッとした映画になってもおかしくないようなテーマ。
でもマンフレドニア監督は、見事なコメディタッチの映画に仕上げています。
もう、こっちの映画も(明日のパスタはアルデンテと共に)大爆笑の連続でした。
途中、涙が出ちゃうような悲しい展開もあるんですけどね。

タイトルの Si può fare は「やればできるさ」の意味。
邦題の「人生、ここにあり!」よりも、原題そのままのほうが良かったのでは? って思っちゃいます。
やればできるぞ、ってことこそネッロが組合員たちに教えたかったことだと思うから。
良い言葉です、Si può fare!
[PR]
by arinko-s | 2011-09-15 21:43 | 映画 イタリア